「気まぐれ美術館」 洲之内徹


気まぐれ美術館 (新潮文庫)


洲之内徹は、絵という物質の魅力を形式的に分析し得るとは、全く思っていないようだ。どこへ流れるか全く検討も付かぬ自分が、たまたまある絵に惹かれてしまい、その絵を入手したことが語られていたり、入手するためにはるばる出向いたら、こんな出来事がありました。という、当初の話はどこ行った?といったような話であったり、場合に拠っては最初から、絵のことに関して全く語られておらず身辺雑記でしかないようなものさえあり、この文章が美術雑誌に掲載されていた事のがおかしいような思いに駆られるものもある。まあ確かに、現実には人はそのようにしか、美術に関われないだろう。とも思う。


たとえばワイエスを批判する「くろうと」の形式的な言葉に対して、自分は素人でよかった。と洲之内徹は言う。これは一見、とても単純な「素人至上主義」に見える。しかし、事はもう少し複雑で、というか、ここでは洲之内徹は「素人代表」を買って出ている訳では全く無く、ワイエス作品の「文学的であり過ぎる」「構図が絵画的でなくカメラアングルに近すぎる」などがすなわち「質の低さ」と判断できる根拠も、「くろうと」と称する人間の周囲だけで通用する固有の事情ではないのか?と、洲之内徹は、風通しだけは良い場所から、たった一人で、語っているようでもある。少なくとも、ふらふらしていて、次の瞬間にはどこに行くかわからないような俺は、たまたまワイエスを観て、それを楽しんでしまうけど?あるいは、まったく別の、無名の画家を見つけてきて、それを楽しんでしまうけど、それはそれで悪くないだろ??と言いたげにも感じる。


同じ調子で、洲之内徹は、戦争のイメージがまったくないのに、戦争反対したり、デモしたりするのは、お願いだからやめてくれと言う。良い悪い以前に、戦場で鉄砲を撃つのは、相手を殺そうとして撃つのであり、戦争とは人間を殺すための組織的な行為であり、軍隊とはそのための組織なんだと。それを頭の中で最低限の具体的イメージにさえせず、変な「観念」に変えてしまって、軽く「賛成」したり「反対」したり出来るような、便利なものに変えないでよ。と言いたげだ。


たとえば京都に関して書かれた箇所がある。とは言っても、京都の歴史だとか寺だとか仏像だとかを、まるきり、はなから無視している。ここでの家族に纏わる、哀感に胸を締め付けられるような話が、本当なのか嘘なのか、それはともかく、もっと自分の人生の、あるのっぴきならない状況の舞台としてしか、洲之内徹は京都を書き出さない。


洲之内徹の文章は、一見、とても不明瞭で、イメージに流れていて、「雰囲気」重視にさえ、見えることがある。少なくとも、美術史・絵画史について意識的であろうとする人にとっては、このような文章は戸惑いをおぼえるだろうし、美術批評としては、はっきり無視すべき過去の遺物と断定したくなりさえ、するかもしれない。ただし、これを過去の遺物と断定できるほど確固とした地平を、少なくとも僕は持たない。この軽妙な文章の裏側にある、深い「屈託」に拘泥する必要を感じる。


洲之内徹の文章は、僕にとって、昔のおじさん達(今、60歳とか70歳くらいの、若いときから美術に関わってきた、酔うと声が大きくなって議論をはじめるおじさんたち)の事を、なんとなく思い出させるのかもしれない。田舎から出てきて、大学に入って、キュビズムを知り、アンフォルメルを知り、公害問題を画題に取り入れることが可能かを考え、まったくその日暮らしで、風来坊で、金もないのに気楽にやりつつ、それでも社会的に意味のある立場でありたいと願い、改めて絵を描いていく事に向き合い、公募団体に出品したり、個展をやったり、仲間と銀座のビアホール「ピルゼン」で騒ぎ、そして明け方また、画室へ戻っていった、数十年前の画家たちを想像する。洲之内徹の本を読んでいて感じるのは、そのあたりの年代の人々が生活したり、この本を読んで感じたであろう、ロマンの香りである。別に洲之内徹の本が、そういうことを推奨してるような本だ。と言いたい訳では勿論無いし、そんな事自体は下らない事なのだが、まあ、なかなか人間、思うように動けないのだろうなあ。などと思う。今、過去を振り返る視点からなら、笑っちゃえるんだけど…。今それを笑うのは、とても簡単だし。。というか、それもまさに、個人の事情(しかも捏造の記憶)に過ぎないし、そんなものを振り回して「根拠」にする事ほど下らなく低劣な事もないのだが、ただ、何が根拠なのか?について考え始めると、もう何も根拠にならない。というのは判りきってるので、考えても無駄な事なのでしょうね。


はっきり言えるのは、挿絵として掲載されてる絵はどれもかなり良質な絵画である。という事。これを「良質」と断定する「根拠」の話なんでしょうけどね!(笑)…まあ良質!と思えるのだからしょうがない。誰か偉い人とかが「こんなの大した事ないでしょ」って言っても、それは知ったこっちゃ無い。それは確かに良いんだよ!と、それを信じて、ソレを信じる自分の事も、まるごと信じるほか無い。