江藤淳という人 福田和也


江藤淳という人

いつか座談で、半ば以上冗談ではあったがもしも我が国が異邦に占領されて、国体が滅ぼされたらどうするか、という問いが呈されたことがあった。酒が入っていたせいもあって、私が一人ででも絶望的テロルを敢行すると云い、別の人が国外逃亡をして亡命政権を作るといった時、氏はやや落ち着いた調子で、自分はけして占領軍に迎合はしないが、また逃亡もしない、襤褸を纏い路傍に石を枕に寝る事になっても、この国土を離れることはしない、と云った。江藤氏の責任感とは、そのようなものだった。

(中略)

江藤氏は「意地」という。意地とは、「崩壊と屈辱と無視」が降り注ぎ、いつ果てるという希望がない時節においても、苦境に屈服せずに傲然とし続ける事、いかな客観的な事物にも主体としての「私」としてのあり方が侵犯されはしないという事を示し続けること、たった一人でも、その崩落に逆らい、胸を張っていた者がいると示す事にほかならなかった。

(中略)

敗北は、喪失は、特定の者を襲う運命である。喪失は、その喪失を悼む者にとってしか喪失ではあり得ず、断念は、恋焦がれる者にとってしか、断念ではない。それならば、その特権性によって、「喪失」に忠実である事、喪失を前に嘆き節も恨みの歌も口にせずに背筋を伸ばす事は、きわめて孤独な営為たらざるをえず、その忠誠ゆえに傷ついた者を守ろうとする者はなお孤独たらざるをえないだろう。

江藤淳の文学と自決」より


敗北や喪失が、「特定の者を襲う運命」でしかないという事は本当に悲しいことだが、あらゆる表現もまた、ここから始まるほか無い。のではないかと思うが間違っているだろうか???? 何も「傷ついた特定の者たちが傷を舐めあうための…」などという下らない話をしたい訳ではない。


美術などに手を染める者を、皆さんはどのような人間だと思いますか?


美術をやるくらいだから、人よりより多くの美しいものを観てるのか?というと、実は、まったくそうではないと思う。美術をやるような人間は、描くべき何かを、ほとんど「喪失」として捉えているのかもしれない。人が、普段見向きもしない事柄に、異常に拘り、わざわざもってまわったやり方で再構成しようとするような者は、たぶん「敗北や喪失」に見舞われる運命を背負っていた「特定の者」でしかないのかもしれない。しかし、これを「特権的な人間」と解釈するのは間違いだ。美術をやるような人間は、特権的な自分の存在証明をしたい訳では、まったくない。

喪失に見舞われた者を守る事こそが、喪失に抗い続ける最も果敢な戦いにほかならない

からこそ、描くのだと思う。