書物の事とか、美的でない事とか…


家に帰ってきたら、大竹伸朗展覧会カタログ刊行時期延期のお知らせという葉書が来ていた。「ページ数と掲載作品数、詳細にわたる関連資料収集のため、編集作業が難航しております。」だそうな。なんかものすごいものが届きそうな期待感を煽られる感じ。


大竹伸朗という人はある種の箱庭主義というかモノフェティッシュの強い人だと思うが、今回の展覧会もまず点数をあれだけ揃えるということに、大きな意味を込めてものすごい情熱を注いでいる事が感じられるし、カタログにもそれだけ多量の情報を積め込もうとする感覚も、ある種パラノイアックなまでの偏執性を感じる。スクラップブックという作品群はもともと書物であったものがすさまじい勢いでコラージュを繰り返された結果であるが、その、かつて書物であったものが、完膚なきまでに陵辱され、変形させられてしまった様相の異様さがまず目を惹きつけるようなところがある。こういうのを非常にかっこ良く見せるワザの冴えが如何にも大竹伸朗という印象をもたらす。


しかし美術作品が掲載されている書物。所謂「画集」というのは、とどのつまり所詮は、写真集なんだよなあと、ふと思う。


影技術や結果の質の高低はどうであれ、とりあえずかつて、現物の作品(物質)の前で、カメラのレンズが向けられ撮影された。という事実が厳然としてあり、その後如何なる変遷を経たとしても、必ずそのフィルムが、掲載図版の起源としてあるという事が、それが現実の絵画とほぼ同一のイメージを与えてくれることの証拠にもなるであろう。・・・ってまわりくどい書き方で自分でも意味わからんが。


なので、画集の作品図版を見るというのは、絵画(物質)の写真を見ている訳だ。大竹伸朗展覧会カタログだって、どんなにものすごいモノであろうが、そこは変わらないはずである。きっと。


なぜこのような事を書いたかというと、例外があった事がふと思い出されたからなのだが、それは2001年に東京都現代美術館で開催された村上隆の展覧会での作品図版カタログである。ちょっと今、そのカタログを確認できないので、以下の文章の事実正確性に若干不安を残すのだが、このカタログの掲載作品で平面作品のかなりの頁はおそらくデジタルデータの直接印刷である。なぜなら作品枠の周囲に製本時の裁ち白である「トリムマーク」(トンボ)が存在しているからである。これはワザとやってるのでなければ、たぶんイラストレータ等のベクター情報をそのまま印刷してるんだと思う(けどどうなんでしょう僕の勘違い?)


村上隆は、巨大な作品の制作なんかだと、まず初めにMac上のイラストレータエスキース(というよりタブローの寸分違わぬ縮小版)を作り上げる。そして、それをでかいキャンバス上にトレースしていく。これら全てがアシスタントの手に拠って取り組まれる。村上隆が独自なのは、やはりカタログ掲載にはトレースされて現前した「タブロー」ではなく、元々目指されるべき「デジタルデータ」であるという選択をする事で、ここには物質としての作品に対する過剰な思いが全く感じられないし、同時に「書物」というメディアに対する屈託とか拘り的なものも、まったく感じられない。という事だ。というより、そのような屈託や拘りを感じさせると、もうそれと同時に、村上隆は所謂「アーティスト」になってしまうので、たぶん村上隆が恐れるのは、何よりもそこであろうと思うし、それだけは避けたいと思ってるのかもしれない。(世の中では、「美的」を放棄している人の方がカッコよく見える。テレビでインタビューを受けてる村上隆は全くぶれも迷いもなく、なかなかカッコよく見える。)…というか、「ああなりたくない」「ああ見えたい」的な感覚よりは「わかんないけどどこまでも行こう」の情熱に石炭をくべまくってる訳で、それがああいう結果になっているのだろう。


ウォーホルのシルクスクリーンの前で、印刷物ではあまり迫ってこないスキージの掠れや色ムラなんかを観て感じる印象と、村上隆の巨大なタブローの前で、微かな手作業の跡を発見してしまう感じというのは、まったくなんのつながりもない。それは村上隆の巨大なタブローに微かに漂う手作業の跡が、端的に言って単なる「弱さ」であって、美的でないという事なのだが、村上隆はそれで全然OKと言うのだろうし、きっとこれからもひたすら美的でないものばかり選択するのだろう。。


ちょっと明日以降、しばらく更新休止です。一週間後に復活予定