Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下で濱口竜介「悪は存在しない」(2024年)を観る (以下、ネタバレご注意ください)。オープニングで、明らかに山本達久のドラムとわかる緻密かつ神経的なハイハット音が聴こえてきて、見上げた空を背景に、連なる樹木たちが延々と流れていく、その場面がいつまでも続く…と思ったら、突如として轟音ノイズが湧き上がる…と思ったら、チェンソーの音である。

森の中に男がひとり、丸太を切り分けて、それらをひとつひとつ、拾い上げては切り株台に乗せ、斧を叩き下ろす。割っては次を拾い、また割っては次を拾う。こうしていつしか、薪がネコ車いっぱいになる。仕事がひと段落すると、煙草に火をつけて、深く喫い、白い煙をふーっと吐き出す。白い煙は、森の景色のなかへ漂い、一瞬で消え去る。

薪割りって、どのくらい難しいものだろうか。あの役者は、どのくらい練習して、ああして「この仕事に慣れてる」感を出せるようになるのだろうか。いや、あれはそもそも、「この仕事に慣れてる」感なのだろうか。

主人公が巧(大美賀均)で、おそらくその娘であろう少女が花(西川玲)である。

あの女の子は八歳らしい。実際にもそのくらいの年齢だろうか。無口で、目が大きくて、黒髪が長い。青い上着を着ている。樹木の名前をよく知ってる。お父さんに教えてもらうから、余計にくわしくなる。

どうなのか。この子の、この「神秘的な感じ」は。大昔の、宮崎あおい、か。子供らしさとは何だろうか。お父さんが「この仕事に慣れてる」ように薪を割る感じと、この女子が森の中を歩いている感じは、少し違う。それは最初からそう感じさせられる。(先日観た「秘密の森の、その向こう」の八歳の女子二人を思い出す。これとはかなり違う存在感として…)

序盤から、おそろしく冗長なカット割りが続く。それはいかにも「濱口調」とも言える。元々の「濱口調」な作風に少し戻ったような気もする。水汲み、自動車、銃声、学校の送り迎え。森の中に住む人々の生活感というか、生きるリズム感というか、このくらいの要素を繰り返して生活しているのですよと、そういうことの説明でもあるのだろうとも思う。

森が過度に美的だとも感じた。あの凍った湖は、鹿の飲み水だという。しかしほぼ凍っている。芸術作品のように美しい。しかし、どうなのかなあ…とも思っていた。

そんな森に、ある施設の建設計画がもたらされ、住民への説明会が催される。施設建設側の担当者の説明住民らは納得できず、場は紛糾する。住民側の意見は、端折らずにきちんと捉えられる。このあたりも、まさに濱口感そのもの。

巧は言う。この地はもともと、未開拓の場所を少数の者たちが開拓したので、歴史は浅く、その意味では誰もが移入者である。だから我々とあなた方との間に、本質的な差異はない、と。

村長(だったかな?)の男性は言う。環境保護とか、そんな大げさな話ではない。上に住む者と下に住む者がいて、モノはすべて上から下へ流れるのだから、上の者はそれに配慮しなければ、上には住めないのだ、単にそれだけのことだ、と。

この、先住者と後から(強い資本を後ろ盾にして)やって来ようとする者らとの、軋轢というか共生とか倫理とか、人間同士の問題をどう扱うのかの切り口が、本作のテーマの中心になるのかなと。建設計画担当者の二人、高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)の、その後、巧や先住者との関わりによる彼らの心理の変容を見せていくことで、あらたな可能性を探るような展開なのかなと、そこまでの流れではそう思わされるのだが、しかしそれは違うのだ。花(西川玲)の失踪とその後の出来事をきっかけに、それまでの位相が切り裂かれてしまう。もはや、人間の揉め事はどこかへ消え去る。問題はもはや、別次元へ移行してしまう。

思い返せば、はじめから匂わされていたのかもしれない「森の論理」のようなものが、そこに牙を剥いたようのかもしれない。動物が動物を、一瞬でパクっと食べてしまうように、一瞬の後に、すべての生は危機に晒される。というか、それはただの摂理であって、危機でさえなく、それは倫理の果てである。

巧の最後の行動は、ほとんど説明のつかない、やむにやまれぬ衝動なのだろうけど、そこには何らかの、連鎖というか、世界の法則というか、従うべき掟には、従わねばならぬという、瞬時の生物的な判断のゆえだったのではないかと、そんな風にも考えたくなった。

まあ、このラストでは、何とでも言えるし、どうとでも考えられる。際限なく言葉を重ねることはある意味で容易だろう。そもそもタイトル「悪は存在しない」が、そのまま同様に、神も不在であり、それを代替し人間の位相に安定をもたらしてくれる何の摂理も期待できないと、容易に想像させるわけで、その地平であの森を見て、あの間もなく死に至るのだろう手負いの鹿を見るというのは、だからつまり、そのように空しい言葉しか呼んではこないのだ。

ただ、これをやるならもっと手前の掘り下げが、それこそ観客に苦痛を与えるくらいの勢いで、もっと執拗なやり方で準備されるべきなのではないかとか、そういうモヤモヤ感はあった。あるいはもっと人間同士の闘争が、前半にどっしりと腐臭を放ってないといけないのではと。傷を負った(聖なる)鹿に、最後の審判を下してもらった、あの鹿に一任させてしまったところが、あるようにも感じた。
とはいえ、やはり見応えのある作品だった。また機会があれば再見するだろう。