私の欠落を埋めてくれるもの


僕はもともと、大変臆病でおとなしい体質の子供であったが、中学とか高校生のときとか、ほんの数回ほど、戯れに好戦的人間であった数秒間があったのだが、後でぼこぼこにされるのがはっきり判っているのに、それでもなんかカッコいいことを言いたい誘惑に抗えず、かなり自己耽溺気味に思ってたことを発言してしまい、結果的にそれが相手を発動させるきっかけになって、案の定ぼこぼこにされたことが、一度以下だがあった。・・・っていうか、そんな事は、今やものすごくどうでもいい事なのだが、そういう時のささくれ立った様な甘美な気分を思い出させるのが、不良中学生の学生服である。中学のとき、不良的な皆さんの長ランの裏地の「登り龍」とか鮮やかな紫色に、密かに惹かれてもいた。裏地が派手であることの快感というのはかなり強烈なものがあって、今でこそほぼ買わないのだが数年前はポールスミスという洋服ブランドの考えていることに、阿呆だなーと思いながらも無視できない気持ちを感じていた。


それとか、上野のアメ横で売ってるスカジャンの安っぽーい光沢感というか、ラメった感じも、心の奥底で微かに惹かれてしまう。ホストとかが着そうなヨレヨレ系のやらしいシャツとか、「王子様」的な(こんなキッチュな僕を楽しんでいるもう一人の僕がいるような構造の)感じだと嫌なんだけど、もっと阿呆らしいチンピラ体質な、幼稚な自己顕示欲とハッタリ感が前面に出た感じに、まだ多少惹かれてしまうところがあるかもしれない。。


そういえばトニー滝谷という映画の中で、病気的な異常さで大量の洋服を買ってしまう役の宮沢りえさんが「洋服は私の欠落を埋めてくれる」的な台詞を言うのだが、これなど僕には、落涙しそうになるような言葉である。


そういえば、というか、上記と繋がるのか判らないが、(僕の中では同じ感じでスムーズに話しが繋がるのだが)「文字」というのはなんか好きである。というか、広告のレイアウトで文字の入ってくる感じが昔からすごい好きで、そういうのをなんとなく思い出したので書いておくのだが、高校生くらいのとき、ノートの裏とか、余った紙に適当になんかを書いて、それでその画面の左中段とか下半分に「PARCO」と綺麗にゴシック体で書き入れるのが好きで、そういうのをよく描いたものだ。


何を書いても「PARCO」とロゴを入れればソレ風なセゾン系広告な感じになるのが気に入っていた。マジでこういうタブローを一枚描きたいとも思っていたのだが、結局「PARCO」は実現させなかった。そのかわり巨大な「RYOTA」とか「RYOTA SAKANAKA 19**」とやたらデカく文字を入れる絵は、結構描いた。これも描かれるものは基本的に何でもよく、問題はロゴのかっこ良さのみであった。金紙を切り抜いて、かなり完璧にキラキラしたアルファベットの型紙をつくり、画面に貼りこんだ。銀座WAKOのショウウィンドウの、異様に薄っぺらで華やかな感じをお手本にしていた。あるいは、BLUENOTEレーベルの昔のレコードジャケットに共通する、色をかぶせたモノトーン写真で武骨なゴシック体が真ん中にビシッと入っている感じも好きで、よく描いた。


あるとき、バイト先のお店の看板を描いたのだが、これがモロにBLUENOTEレーベルな看板に仕立てて、これがお店に掛かったときは感動した。こういうときの嬉しさは、看板自体の出来がどうとかそういう事は全くどうでもよいのであって、とりあえず何かの目的(らしきもの)に拠って作られたものが、然るべき場所にすっぽりと納まって揺ぎ無い。ということの満足感から来る嬉しさなのであって、ほんとうにこういうのは嬉しいのである。勝手な推測だが、こういう制度内で相応しくニーズに供給できる喜びは若い人ほど切実に欲していると思う。こういう喜びに、ある意味背を向けて平然とするのがfine artに関わる上では重要なのかもしれず、僕なんかは今思い出しても、自分の欲望の形を振り返ると、若い(20代とかの)ときアーティストとして制作する事はちょっと無理してたのかな?とも思う。


まあ、話は飛ぶが(戻るが?あれ?何の話だ?)しかしほんと、コンピュータがあって本当によかったと思うのは、所謂ちゃんとしたフォントを簡単に扱えるようになったことである。昔はよく、レタリングシートなんかを買ってきて拡大コピーしたりとか、信じがたいような苦労をしていたものです。というか、小中学生のときは、レコード屋で売ってるレタリングシートを買って、一文字ずつカセットテープの背表紙に、アルバム名を印字していったりしたのであった。よくあんなメンドクサイことしてたよ。。まあでも、今そういうこれ見よがしに文字を入れるなんて事は、あんまりする気にならないが…。なんちて、すぐまた思いつきでやりだすかも知れぬが…。