「モディリアーニと妻ジャンヌの物語展」Bunkamuraザ・ミュージアム


モディリアーニは素描に、ほぼすべてがあるように思う。モディリアーニの素描はいつも極めて素早く一挙に仕上げられるようなものだ。何点かは枠の中での効果的な振る舞いを模索するようにしているような感じもあって、所謂キュビズム的な意匠を借りて上手い事やろうとしてるようにも見えて、こんなもんか?とも思ったが、しかしこれが中期以降になると、すごい手離れの良さで、15秒くらいで決めていくようなのが連続していく。いずれも緩やかな弧を為す線の慎ましい行き交いと、要所に付けられるちょっとしたコントラストだけで出来ている。余剰とかを完全に削ぎ落とした要素の集合であると同時に、人の顔らしき面の広がりであったり、まぶたの切れ目であったり、上唇のふくらみであったり、添えられた手のしなりでもあるような、そんな風な絵画作品である。そういうのが最小限の関係性で画面に現れてるのが、モディリアーニの素描である。前に見たポンピドゥー美術館のヤツにも何点か在ったが、あれも悪くなくて、昨日から、この感触を体験したいとぼんやり考えていて、モディリアーニの素描を観たかったのだ。


そこで試みられているのはかなりシンプルな事で、まあ上手く説明し難いのだが、上と下が閉じきっていない紡錘形のかたち、というか、かたち以前のぼわっとした何かのあらわれを呼び起こすのが、執拗にトライされているのだと思う。捉えがたいものが捉えがたいままに、有機的で柔軟な気配を充分に残したまま放置されるのが、モディリアーニの最良の素描作品であると言える。そこに加えて、前述のような、顔やら手やらの表象物が巧みにブレンドされて、全体が曰く言いがたい感触をまとって観るものを陶酔させる。


モディリアーニの作品は総じて憂いとか、感情の表出とか、そういう感じはまるでなくて、むしろ目や口元をあらわす筈の線がそうではない線と剥き身で関係し合うような事が試みられていて、それゆえ人間の内面だとかそういう表現主義的な傾向を徹底して欠いた、自律的な絵画の運動に終始していて、やってる事はモティーフが友人であろうが妻であろうが揺らいでいない。その現実に対するときの淡白さが、結果的には逆に観る人の気分に効果的に作用してしまうのだろうが、それはそれだ。(というかやはり、ほんのひとすじだけ俗な要素があるのが、やはり堪らない良さなのかもしれないが…。)


あの帽子の左右に広がるおおらかな曲線と、輪郭の縦線および顎に添えられた手が為す縦線の、絶妙な交差というのは、やはりとんでもなく素晴らしい。あるいは画面のほぼ真ん中にぼわーっと茫洋として佇んでいる女性像の、そのかたちとして立ち上がってくる感じだとか…。こういう、一部を具象的なイメージに頼らざるを得ないところは欠点なのかもしれないが、しかしそれゆえにこの画家独自の、かけがえが無い単独性を獲得できているとも言える。


そういえば一点残念だったのはカリアティドをモティーフにした作品が一点もなかったことだ。モディリアーニにとってカリアティドは極めて重要なモティーフで、--カリアティドとは建物の柱が女性の彫刻になっていて、女性が屋根を支えるみたいな格好をしている造形物のことだが--絵画的要素を単に画面内で走らせるのではなく、こういう一方向から、ある一定の力を掛けられた何か、という事実を題材(アリバイ)にして、それをモティーフに選んで、多分、ある形態が曲がる・きしむ・たわむという事であり、そこで変容する空間およびかたちに対する強いこだわりだと思うが、そこから絵画を描くことにつなげる、というのが、人物に執拗にこだわるところと共通しているようにも感じていた。が、カリアティドは在りませんでした。


ちなみに、恋人のジャンヌ・エビテルヌの作品もたくさんあるが、このように並べられてしまうのは大変気の毒な感じである。でも20歳そこそこでの作品がほとんどである事を考えると、逆に相当なものだとも思える。…しかし痛々しいのは目指す方向性の強烈な揺らぎ方で、まあ若いのだから当然だろうが、ほとんどまだ入り口にすら立っていない段階で生涯を終えてしまったような感じではなかろうか。。っていうか、ずーっと彼氏の方が、終始とんでもなく桁違いに高い次元の仕事をしてるんで、こうやって比較するように観てると結構キツイ。なんつーか、阿呆みたいな話だが、エビちゃんの迷走の軌跡が妙に自分とオーバーラップするようにも感じられて気分が暗くなるような感じもあり。