引用:146頁〜147頁
夜が来た。
東急デパートの上の空の青さが、一瞬、濃くなり、紫色じみたかと思うと、明るさがゆっくりと退いていく。
夕闇の予感が広がり、一つ、また一つ、常夜灯が、まだ昼間が支配している空気のなかに、白い光をともしていく。
交差点を行き来する人々、すこしでも先へ行こうと車線変更する車、うなだれるトラックの間に、親和がしみこんでいる。
静かに、静かに、すべてが変わっていく。
夜が来た。
夜が来た。
カンパリ・オレンジの淡く爆ぜる香りが鼻腔の奥で疼き、呻くようなくぐもった声が、肺腑から登ってくる。
救われた。生きのびたのだ、俺たちは。
ティエポロの夜、ポール・モーランの夜、セッテベロの夜。あぁ、つれなきアルファロメオ・ジュリエッタよ。そのブリキの冷たさで僕に夜の祝福を伝えてよ。
夜が来た。
昼は去った。光の時間は過ぎたのだ。
橙色、緑色、黄色、赤に塗られたタクシーの連なりが、艶かしい照りを闇に放ちながら夜の彼方の、そのまた奥へと僕を誘う。
女たちよ、アスファルトの余熱、排気口からたちのぼる脂ぎった蒸気よ、身分不相応な服を着た街角の悪漢たちよ。聖者たちよ。
バー・カウンターの奥でかな光りするすべてのショット・グラスたちよ。
僕は君たちすべてを呑み尽くすことを誓うよ。
ゼムの"ヒア・カムズ・ザ・ナイト"とデヴィッド・ヨハンセンの"ヒア・カムズ・ザ・ナイト"。
夜が来た。
祝福よ。夢よ。裏切りよ。
僕は信じるよ。失われたものは、まだ失われきっていないことを。損なわれたように思われたものの、そのすべてが回復できることを。
舌に感じた甘さ、掌に感じたぬくもり、うなじに嗅いだ芳香、ふいに降ってくる陶酔のすべては真実であると、僕は信じることにするよ。
僕は何も失っていない、毀れていない、立ち直れる。
つねに、いつも、太陽が傾き、夜が訪れるように、たしかに。
夜が来た。