考えても無駄/考える/歌う


昨日テレサテン物語みたいなドラマを見ていたのだが、台湾〜中国〜日本の外交状況の奔流に揉まれながらも歌う事で自分を律しようとした生涯が、まあテレビドラマらしく大変わかりやすく描かれていた。


しかし「私はただ、歌いたいだけ」という言葉には、とても複雑なものがある。私はただ、歌いたいだけ、という考え方は、とても大事で、それを見失ってはいけないのだが、でもその言葉自体は、とても単純で幼稚なものだ。私は単に欲望の赴くままにやりたいだけなんだ、国とか外交とかは無関係だ、そう思える自分を肯定するんだ、というのが、ひょっとしたら別の悲しみを生んでしまうかもしれないではないか。そうだとしたら、私はただ、歌いたいだけ、という考え方自体に罪が含まれるのではないか?天安門の学生たちを一瞬でも喜ばせた自分をなおも肯定しつつ「私はただ、歌いたいだけ」といい続ける事は、実は恐ろしい罪悪ではないか?


しかし一方で、私はただ歌いたいだけなんだと、事あるごとに何度でも思うことでしか、自分を駆動させる事はできない。そう思うことで、じゃあ私にとっての歌とは何なのか?私の歌う行為と、相手の聴く行為にどれほどのズレがあるのか?あるいは、どれほど分かち合えているのか?このことに一体どんな意味があるのか?といった事への思考へと繋がっていく。


この状況下で、如何に振舞うのがもっとも「良いこと」なのか?を考えるというとき、一番激しく揺らぐのが、それを考える私自身だったりする。だって、それを私に正しく判断できるのかなんて、私には絶対わからないんだから。考えて考えて、しかし結果的には何にも考えていないかのような事になってしまって、傷ついたり挫折感を味わったりするのである。


でも、結果的に大きく間違ってしまったりとか、結果的に何も考えていないような事になってしまったりとかいうのは、実際に、何も考えなかった場合の結果と、おおよそ一緒であったとしても、それでも何か、どこかほんの少しだけは、違うようで在る事を祈りたい。。テレサテンの歌は美しいが、その生涯と何の関係もなく美しい。それはそうなのだが、でも思うのは、その美しさがそれだけの単体で存在しているものではなくて、ほんの少しでもその人の思考と、どこかでひとひらでも繋がっているような、そういう気配も織り込まれたようなものであってほしいという風にも思う。でもやはり、決してそうではなく、作品とはただあっけらかんとそこに在るからこそ美しいのかもしれないが…。