「近松物語」


実際、映画というのは観ていると実に不思議なものだと思う。皆、どうやって映画を観てるのか?と思う。特に、始まって5分かそこらで「ああこれはなんだかすごい」と予感されるような映画の場合、もうこの後、目の前で展開されてるこれらを一体どのように観れば良いのか、多少困惑を感じつつ、すごい!という喜びと、流れ去ってしまった!という喪失感を交互に感じつつ観続けたり。


溝口健二の「近松物語」について何かを書く、と思ったら、そのとき観たものすべてを書き出さなければならない事になると思う。というか、「近松物語」を観た。と簡単に言うけれど、僕は本当に一体、どれほどちゃんと「近松物語」を観たのか?という事で、まあ、はっきり言うとこれは一度の鑑賞では、全然見切れないくらい豊かなものであった。。


「映像」とか「セット」とか「衣装」とか「顔」とか「芝居」とか「物語」とか、そういう要素は映画の中のどのような役割のモノなのだろうか?そういうのを観ていちいち、すごい、と思うのが映画な訳ではないだろう。そういう何だかものすごいものが連続して、というか、一挙に襲い掛かってくるのが、映画なのだろう。だから、映画評論家とか、映画の体験を沢山積んでいる人というのは、そういう一挙に襲い掛かってくる何物かに、経験上、程よく慣れていて、複雑な全体から非常に的確な一部を摘み上げてくる能力に長けた人なのだと思う。(でもそれはもちろん抽出してるだけなのだが。…今思いついたのだが、映画を巻き戻しで最後から最初まで観たらそれは抽出物より面白いかもしれない?)


…まあそれはともかく、とりあえずここでの物語を大雑把にまとめるとれば、前半のお屋敷内のものすごいシーンの連続→中盤の(死ぬより怖い)地獄の黙示録→ラストの個と社会との正面衝突という3つの大きな見せ場があるように思ったのだけど、特に前半部の格調高さはすごい。中盤の(成瀬の浮雲みたいな)どこまで落ちていくのか呆気にとられるような流れもすごい。で、後半、もはや失うものを全て亡くすという事の、この世でもっとも恐ろしい結果を引き受ける事の有無を云わせぬ凄みに打ちのめされる…。という感じ。


あと、やはり以春という経師屋の主について、すごく考えてしまう。ここでの以春は物語における完全な悪役だが、しかしあのように「制度」を守り抜こうとして、そのためには手段を選ばず奮闘する。でも、突拍子もない人並みはずれたアイデアで窮地を打開する訳でもないし、悪事の才能に溢れた痛快な振る舞いを見せる訳でもない。むしろ当たり前に妻を探し、対面を繕い、臭いものに蓋をする凡庸な対処に終始する。要するに経営者・管理者として可能な限り、最大限の努力をするものの、遂に適わない。それ自体は哀れだ。(おさんの実家も同様…)この話では、歴史も文脈も欠いた超個人的な「色恋」のモチベーションを貫徹しようとする茂兵衛・おさんのペアと、対面とか家とか商売とかから成る「システム維持」のモチベーションを貫徹しようとする以春との、何の装飾もないガチな闘いの物語なのだ。(そして双方滅ぶ。まあ以春はこの後も第二の人生を生きるだろうが)


残されたものは(悲しみに暮れるであれ、降ってわいたチャンスに喜ぶであれ)やはり引き続きあくせくと生き続けるしかない。