情報について


新幹線の中に監視カメラが付いてたって、疚しい事がなければ別にいいじゃん、という話を読んだ。その方が治安維持に役立つし防犯上良いよねっていう事だ。たしかにそれはそうかもしれない。でも、それを認めると、…そういう事をこの後も延々認め続けると、ある一部の人々に「情報」を所持する事のアドヴァンテージを、激しく沢山与えてしまう事になって、それを自ら認める事になってしまうのではないか?それは本当に良いのか?とも思う。


勿論「情報」自体になんか、何の価値もない。疚しい事なんか全くない平凡な男が座席で寝ている映像なんか見たがる奴はいないし、それを悪用しようとする奴も、まずいないだろう。監視カメラに映った映像なんか誰にも見られず捨てられる只のゴミである。(まあ仮に犯罪が起きて参照される瞬間があった場合、その映像から受ける印象を「事実」と疑いもせず、そこに映ったものが犯罪か否かを「判定」するというのも、ナイーヴ過ぎて阿呆らしいなあと思うけど、まあもちろん「素材」なんでしょうけどね。)。。


…だから別にいいじゃん監視してOKです。と言うのはやっぱ、微妙にヤだと思う。えーキモイよ勘弁してよカメラなんか回すな。色々削減したらそれしかないからっていう浅ハカさでそれほど時間掛けずに決めて実施されてるんでしょ?犯罪行為防止っていうならもっとじっくり考えて、いい方法考えろよ。っていう意見で良いとか思ってしまう。


「情報」とはそれ自体では無価値だけど、何かと引き換える事ができる場合にのみ、価値が生じる。その意味では通貨に似ている。人々がひしめき合って暮らしているこの社会の中でだけ有効な、そういう枠内のみの信用で支えられている。


例えば「個人情報」とか。…個人情報なんて大騒ぎするけど、一体何だと言うんだろう?たとえば坂中の個人情報それ自体に、どれほどの価値があるか?ゴミ以下の価値でしかない。っていうか、何でもない。これは自虐的に言ってるのではなくて、普通に事実だ。でも例えばこの場所でべろーんと全部晒す事はできないという、そういうものだ。


しかし、坂中(に限らず他の誰でも、不特定多数)の個人情報が価値を有するかもしれない。と信じられる社会の中において、その個人情報は、その内実の価値を問われずに流通するかもしれない。坂中の個人情報を持っているものと持たざるものの間に、何がしかの格差が生じて、そこに動きが生まれるかもしれない。そういうのが溜まりに溜まって、只のゴミの集積な筈なのに、すごい力を持った何かに化けるような…(まあそこから新たに雇用も生み富も生むのであれば結構なのかもしれないが)


この、まったく空疎なやり取りのダイナミズムは、やはり資本主義の一形態としてどこまでも続いていくのだろうか?「情報セキュリティ」とかなんとか…。まったくうんざりするが、しかし今や「情報」までをも持つ者と持たざる者に分割していくのであれば、やはり監視社会っぽさは近いうちにより判りやすいかたちで到来するのだろうなあ。まあでも、そういうのに反対したいと思いつつも、身近な身の安全と引き換えにされると、本当に辛い。そういうのを、良い按配で多少なりともタカを括る事ができて、そういう個人が居てもある程度それを許容する社会があって…というのが、本来はいいんだろうけどなあ。でも現実はそれとは逆で、ひとりひとりが微妙に不安、とか微妙にストレスが溜まるとか、…そういう一番悪いエネルギーが、少しずつ鬱積しているのだろうなあ。