「流れる」


流れる [DVD]


すごい映画。先日観た「近松物語」と、今回の「流れる」を、両方とも2回ずつ観てしまったのだが、2回目の「近松…」が、けっこう、予測してたよりあっさりとした気持ちで観れてしまったのが意外だった。たしかに息詰まるような瞬間は多々あるが、しかしそれぞれのエピソードが華麗で派手な分、既に体験済みの2回目であることの「慣れ」の効能が事のほか大きい印象。よって、かなり冷静に見終わってしまった。


しかし「流れる」は違う。これはまず一度観て、これも「近松…」同様とんでもねえ映画だ!!と狂喜したのだが、二度目観て、ますますすげえ!!と思った。というか、二度目の方がより良かった。…まあ回数観てどうこう言うのが何の意味があるのかはともかく、とりあえず今、この「流れる」という映画が本当に素晴らしく感じられていて、僕にとってはもう、とてつもなく掛け替え無い映画となってしまった気がする。手のひら返すようだが「近松…」よりこっちの方が好き。


まず僕は役者であるとか演技であるとか、そういうのはよく判りませんが、それにしてもこの映画に出ている役者の皆さんの「演技」というのは、只事ではないのではないでしょうか??勿論、どの役者も極めて抑制の効いたフレームの中で、やるべき事をやっているだけで、それが作り手の異様に研ぎ澄まされた包丁さばきで切り取られて、再度、繋ぎ合わせられていて、そのまま映画になっているだけの事なのだろうが…それにしても、人というのは、ああいう風に「演技」ができるものなのか???女優とはどういう生き物なのか??…というか、ああいうのは事前にどれほど「こういう感じになるだろう」とイメージできるものなのだろうか??呆気に取られるしかないような思い。。


そんな感じで一度目観たときはそれぞれの役者の、神業のような芝居をぼおっとなって観ているだけという状態だったと思う。それと山田五十鈴のカッコよさにうっとりしているだけ、という状態。。


でも二度目に強く感じたのは、その演出の驚くべき細やかさだ。たとえば、高峰秀子がはじめて「わたし働こうかと思ってるの」と言い出す直前のシーンでは、別々の場所に居る杉村春子田中絹代やなんかが、皆不思議な一抹の何かを感じて、上を見上げる。そのシーンが重なる。ここだけでは、何を意味しているのか判らないのだが、それぞれの役者の上を見上げるという仕草から、観る者は記憶を連鎖させ、ああ雨になりそうな雲行きなのかな?と微かに感じる。そうすると、その後に、高峰秀子が立つ窓枠の向こうの空が稲光で一瞬かっと明るくなる。山田五十鈴が(震撼するほど優しい母の顔で)「降っていたのかい?」とたずねる…。…僕の説明が下手だ。そんなの面白く無いじゃん。いやもっと、映画ではすごいのだ。このへん、観ていてぐうの音も出ない。。


こういう(上手く説明できないけど!)恐ろしく細やかな仕掛けが、縦横無尽に張り巡らされているのが「流れる」という映画で、僕もあんまり記憶力も集中力も忍耐力もないのでおかげさまであんまり書けないが、とにかくそういうのに恍惚としているうちに映画が終わってしまう。


で、何度観ても思うのだが、ここでの山田五十鈴のカッコよさに惹かれないで居る事は実に難しい。僕は一度目のときは、もう映画の事なんかどうでも良くなってしまうくらい、山田五十鈴だけを観ていたい気にすらなった。お話の中では、この女将の身には嫌なことばっかり起こるので、観ていてこっちが辛くなるというか、まあ普通なら「もういやだ!ばかやろう!!きー!」ってなりそうな状態なのに、山田五十鈴は、黙々とやるべき事をやり、我慢し、忍耐し、芸者や姉や娘と接する。何の感傷も憐憫もない。ちゃっちゃとやる。横目で一瞥する。女中に指示する。出掛ける…。あの、出掛けるときの着物の美しさ、帯を締める手つきの素晴らしさ。あんな風に自分を律する事のできる、という事が夢のように思える。なぜ、そんな風に毅然としていられるのだろうと思う。もはやの世から消えてしまった幻の奇跡を見るような気すらしてしまう。いやまじで。


実際、山田五十鈴演ずる女将は「芸事は一流、でも人を見る目がないのでねえ」と一蹴されてしまうような、所謂経営感覚というかビジネスの才能はまったく評価されない(そこでひそかに評価されるのが田中絹代演じる女中なのだ)。この残酷さに、僕なんかはかなり打ちのめされる。でも、昔の芸者はねえ。などと回顧話を云い、いやだわ、娘にそんなみみっちい商売させたくないのよ。こんな街でミシンの音なんてさせないでよ。と娘の就職にも反対し、現状を打開する良い案が在る訳でもないけれど、とりあえずしゃんとしている事の神々しさに満ち溢れていて、別に成功しなくても、しゃんとして生きていれば、それだけで充分だよ、とも思う。


そして、あのクライマックスの、杉村春子高峰秀子の一騎打ちのすさまじさ。。僕は二度目のとき思わず感極まってしまった。そのくらい、あのケンカシーンは素晴らしい。何か、自分の心の奥の、普段は静寂な部分が揺れ動くような思い。。


そして高峰秀子。僕らの仲間。ミシンを踏む人。ラストシーンでの三味線の音とミシンの音が絡み合っていく。芸者屋は消え行くだろう。全ては滅ぶだろう。ミシンの音は、少しずつ大きくなっていくだろう。そのせつなさをともなった予感。(その高峰秀子のミシンの音はもしかしたら、美術の勉強をして、美術大学の大学院まで出たのに、今や毎日キーボードを叩いている僕のデスクから発される音にもつながっているか?いや余計な事書いた。。)