治者


昨日「流れる」という映画について書いたが、あの山田五十鈴を僕はなぜ、それほど素晴らしく感じてしまうのか?といったら、今の僕が。無意識に、所謂「治者」の姿を見たい見たいと、感じ続けているからだろうと思う。それは、ものすごい能力を持っていて、無数の大衆に向かう方向性を指し示してくれるような圧倒的な指導者みたいな、そういう「どこかへ導いてくれる人」ではなくて、たとえば非常に困った状況の只中に居ても、感情的になるのでもなく投げやりになるのでもなく、只いつも通りにやる事をやっているような、そういう日常を確実に送り届けてくれる事を保証してくれる、というか「今ここで、この不安を感受し続ける私を只見守る」人としての「治者」だ。別にそれだけでそれ以上何もしてくれないとしても。


第一、問題を解決しなければならないと決まったとき、一番上の人が、その問題解決に必死に対処してたら、そんなのは駄目なのだ。そういうのは下々の人間がやるのだ。「これはこうすればいいんですよ!当然じゃないすか!!俺にやらせてくださいよ!」とか感極まりつつ実行役を買ってでる奴がいて、周囲が「どうですかねえ、他に手もなし、やらせてみますか?」っつって、一同が「治者」を見る。そうすると「治者」は


「そうだねえ。(…沈黙…しばらくして、にっこり笑顔で相手を見つめ)まあ、やるだけやってみるといいよ。後の事は周りが何とかしてくれるだろうさ」


とか何とか言うのである。「承知しやした!」みたいな感じになって、一同が俄かに活気付いて、そのままさーっと仕事の緊張感があたりに満ちてくるような…要するに仁侠映画だ。あるいは時代劇だ。西部劇ではないんだよな。アウトロー(一匹狼)じゃ駄目なのだ。今、時代が求めてるのは組織のメロドラマですから!!…そう、俺もサラリーマンだからな。そういうのを見ると良いのだろう。ってか、僕ってもしかすると、最近の会社員らしからぬ超うざいタイプかもなあ。でも「それは私の仕事じゃない」が「いいよ俺がやっておくよ」に変わる為には、そういうメロドラマはとりあえず必要と思うけどなあ。(いや、そういう「効能」と、「治者」の毅然とした美しさは、直接はまったく無関係なのだけれども。)