「The Last Waltz」The Band


THE LAST WALTZ


明日、搬入なのだが、実際自分が展示された自作の有様を目の前にしたときに考えそうな事を、あらかじめ想像してここに書いておこうか。(初体験前夜の童貞のように緊張と羞恥に苛まれつつ真剣に可愛く。)


観て、その直後すぐに、かたちに対して突き詰めが足りないと感じる可能性はある。もし、そう感じてしまったとしたら、ちょっと怖い。すべて失敗したと思うかもしれない。各人体のイメージは、そもそもなぜこの感じで良しとされたのだろうか。そこが根本的な違和感と感じられる可能性があるということだ。…これは具象表現が不可避的に纏わざる得ない問題ではなかろうか。優れた具象は、このレベルでは絶対に違和感を感じさせない。というか、そのイメージが、そのかたちで現われている事が、そのまま存在の裏打ちになっている筈だ。かたちがすなわち、強度なのだ。凡庸なものは、そもそもなぜそのイメージが召還されているのかがわからない(描き手の思い入れ以上のものを見出せない)から、その時点でアウトになってしまう。ここがまず、どうか。


あと、描いたという事の抵抗感と滑らかなイメージという事との、好ましい調和が感じられるか?それがどの程度か?・・・そこで、おおよそ印象が決定されるだろう。もちろんあんまりはっきり明確ではないし、それで良いのだが、それが僕の感じているニュアンスから遠く外れずに、良い意味でうっすらと感じられるか?


…そんなところだろうか…?やっぱり肝はかたちだろうなあと思う。で、何よりもそれを前にした僕自身が喜べるか否か?それが一番の問題。単に画廊の壁に喜ばしきイメージが連鎖していれば、それだけで何も要らない。でもそれが一番困難なのだ。


…でも、まあそんなのどうでもいいね!!!と、急に思った。今、少し飲んで軽く酔ったまま、呼込みを振り切りつつネオン輝く仲町通りを抜けて、上野駅の地下鉄の入り口へと向かって歩いているところだ。気分は悪くない。少し涼しくなった大気が肌をクールダウンさせてくれる。空が暗闇に包まれる寸前の、嘘のような青さに染まっていて、イヤホンからはThe BandのThe Last Waltzが聴こえている。…それにしても、なんという豊饒で立体的で憂いとファンキーさと切なさを含み込んだサウンドである事だろう!!It Makes No Differenceが惜しげもなく開始され、楽曲が滑り出していくのを、一体どこの誰に止める事ができるというのか?The Night They Drove Old Dixie Downの祝福が空から降り注ぐとき、僕は思う。仮にこの実況録音されたイベントが、昔から囁かれているような、どれだけカネと思惑に塗れた薄汚いものであったとしても、そんな事はこの豊饒さの前でどれほどの瑕疵になり得ようか?身の丈に合ったおあつらえ向きの潔癖や急場凌ぎの正しさを守る事に、如何ほどの価値があるのだろうか?…この艶やかさを浴びながら雑踏を歩きつつ感じているのはおおよそそんな事で、あとは只、迸る快楽そのものとして送り出される音に身を任せるだけ…それだけだ。


そして、スクランブル交差点で僕は人々と行き交う。夜の装いの女性たちが、前から後から、僕の傍らを通り抜けていく。美しい衣装を纏った沢山の女性たち!背中や脚を露にした衣装を翻し、話を終え、携帯を閉じ、一瞥し、人の脇を擦り抜け、ヒールの音高く歩き去る君たち!!喜びが胸の奥で爆発する。僕はこれからも延々、一瞬あとには崩れ落ちてしまうようなあの、華奢に傾きつつ辛うじて突っ立った君らの有様を描き続けるだろう。あの美しい衣服に包まれて突っ立つからだのテンションを何度でも呼び起こして支持体に刻み続ける。それを誓うよ!