やりたかった事とその結果


今の携帯電話なんかは、同じキーが数字の入力であったり文字入力であったり実行命令であったり選択範囲の決定であったりと、異なる複数の用途を担っている。で、ひとつのキーに割り当てられてる用途を変更するためのキーもしくは操作手順というものも別途、用意されており、ユーザはキー入力と機能切り替えが目まぐるしく交差するような相当複雑な操作を、無意識に行っている。


昔の機械というのは、大体こんな感じで使えた。「自分が何かしたい→そのボタンを押す。→結果を確認する」
今は携帯にせよパソコンにせよ家電製品にせよ大体こんな感じだ。「自分が何かしたい→目的に適うよう調整する→そのボタンを押す。→結果を確認する」


「何かしたい」の絶対量が増えたにも関わらず、それに比例させて操作ボタンの数を増やすのは物理的に難しいため、このような操作の複雑さを受け入れなければならなくなった。だから特に年配の世代にとってちっとも便利ではなく、むしろ暮らしづらい世の中になった(という事が保坂和志のエッセイに出ていた)


「何かしたい」と「結果を確認」の間が限りなく近づく事、システムと人間の間のインターフェイスが極めて滑らかである事こそが進歩のように思うが、現実はそうではない。今、社会で必要とされていて、これからますます必要とされるのは、湧き上がった「何かしたい」欲望の構造を別視点から素早く掴み、大体似たものを集約させたあるグループに振り分けてファンクションキーに押し込め、切り替え操作で効率的に結果として実現させるという、その手さばきの冴えが求められているのかもしれない。それは、本来の「何かしたい」要望に適った満足の行く結果なのか?については、あんまり厳密に追求されないように思う。というかその時点で、やりたかった事とか本来の欲望とかは、確実に何かとうまいことすり替えられているように思う。


いまやってる事が、本来の「何かしたい」に適った振る舞いであるか否か?を判断するのは難しい。でもそれがどうなのかを感じつつ、その体系を自分が受け入れ、体系に自分を溶かし込み、そこで求められている所作に忠実である事の快楽に淫する事の魅力というのが、これまた別にある。テクノロジーを使う快楽であり、インターフェイスを無理やり自分の器官の一部としてしまう愉悦であり、不良品に近いポンコツを自分だけが上手く乗りこなす快楽であり、環境に適応していく事の快楽の基本だろう。


そうなってくると「何かしたい」なんていっても、そういう欲望が本来の生々しい姿で在るなどと思う事自体が幻想ではないか?こういうインターフェイスであるとかシステムとか体系とかが存在してはじめて、欲望にかたちを与えてくれるのではないか?少なくとも、この操作感覚を私は充分に知っている。といえる事が、本来の欲望を私がそのように処理して、かつどこかの誰かが、同じように感じている/感じていないを推測する手掛かりにもなるだろう。そのようなフィールドに立っている事の安定感。…昔、女子高生が公衆電話から「ベル打ち」の圧倒的なスピードで相手にメッセージを送っていたのを思い出す。今でも携帯メールとかで、わざわざあの打ち方してる人って多数いるらしいですね。


考えるべき事は何か?すり替えられてしまった筈の欲望の本来の姿なのか?それとも「犯人」を探す事か?あるいは「すり替え技術」の徹底した解析なのか?…例えば絵を描く事は、それらのどれとも違う気もするのだが、どうか?