「うきぐも」での永瀬恭一氏作品について


これを書いてる現在、既に会期終了しているのだが、はてなダイアリーpaint/note」の書き手でもある画家の永瀬恭一氏が出品している企画展「うきぐも」を先週、観に行った。(会場:川口市立アートギャラリー アトリア/masuii R.D.R gallery 24日終了)ふたつの会場を使った贅沢な企画展で、全体的にキュレーションとかコンセプトとかが纏いがちなややこしいところの無い、緩やかで柔軟な豊かさを湛えた催しだと思った。


永瀬氏の作品は、同会場(masuii R.D.R gallery)で2005年にも観ているのだが、今回展示されている作品は、そのときの感じとは随分変わったと思った。前に見た作品では、画面上の絵の具が全面、結構複雑に乗っかっており、何か手で描いたようなもっと固いもので描いた(掻いた?)ような、不思議な痕跡の集まりをしばらく目で追ったが、「もう大体観た」と容易には思えないような、簡単に解決が来ないような組成を持つ絵だと思った。しかし、艶々した油絵の具のボディの感じはあり、要するに「一見そうではないようでありながら、ものすごく油絵(アブラエ)そのもの」だと思った。web上の画像なんかを見ていて、もっと極めてクールでグラフィカルな印象を予想していた(そのようなイメージ、というかフォルム自体の冴えを志向する傾向の作品と思っていた)ので、すごく予想外だった記憶がある。


今回は前回と比較して、描くという行為を「描く」アクションとして絵画の諸要素のひとつと限定して捉えられているような印象を受ける。全体の中でアクションが持つエネルギーとか効果が常に計られているかのような抑制感に満ちている。そのため「描く」結果自体が明確さを持ち、非常にシャープでエッジの効いた結果になって前面に出てくるように思った。「描く」アクションだけなら前作よりもドライ&ハードネス度を増して、しかし容易には解決させないだけの複雑な組成も有しており、結果的にそれ自体でシャンと自律した感じがあって、作品全体の佇まいがかなりカッコいい。


さらに、そういう描かれた様相を丹念に目で追ってくれても構わないけど、もっと視点を変えて気分を新たに観てみても如何です?というような感じで、作品ひとつひとつの物としての組まれ方、および展示方法において、複数のパターンが試みられている。例えば極端に差の付けられた画面縦横比率であるとか、木枠なしで下の床に画布を置いて文鎮で固定とか、重なった木枠と画布をクリップで止めるとか、床と壁の繋ぎ目と作品下端を密着させる…などなど、多様に。僕は注意力が散漫なのであまり気づけず、こんなのもあったでしょ?/あるいはそんな展示物なかったよ幻覚じゃない?っていうのもあるかもしれないのだが。申し訳ないが本文をお読みの皆様におかれましては、そのあたりはあらかじめお含み頂いた上で想像して頂きたい。


取り急ぎ感じた事としては、これは「日本」だと思った。…ってか、相変わらず我ながら唐突感がものすごくて狼狽も感じつつ、やはりうまくいえないけれど、床に広げてある長い絵は、巻物をべろんと広げた有様を想像させたし、大作だと、ある種の規則性に基づいて展開しているようにも見えるタッチが、下から上へのダイナミズムを微かに生じさせており、そういうイメージの絵が床に下端を設置させているので、見た目はまったく違うはずなのに、なぜか障壁画とか屏風絵のたち現われ方を感じさせるように思った。


しかしいずれにせよ、ここで試みられているのは、おそらく何かの提案なのではないか?この多様なバリエーションは、個々のモノ自体との出会いの一回性を希望している訳ではなく、逆にこうじゃない可能性も在り得たかも知れない、という相対的偏差の過程としてそこにあり、その在り方自体で、観る者に何かを考えさせようとしているようだ。そういうモチベーションから出発する事でこのようなイメージを召還し、このような作品として立ち現われる事を「許した」のではないだろうか?などと思いつつ…。(なぜ「許した」という言葉を使うかと言うと、それは何かを作る時には誰でも必ず、基本的に何も出せない、何をやっても行き止まり…というところから出発して、色々な葛藤の果てに「これなら、私はこれ自体を許せる」と感じるのでは?と思うから…。まあ、これも唐突だし、あまりにも自分の都合に引っ張り過ぎな見方かもしれないが…。)