おいしい


何か食べて、それがおいしいと思う。しかし「おいしい」という言葉によってあらわされる感覚ほど、人によってそこに感じている内実とか意味がばらばらなものないかもしれない。ふだん、僕の言ってる「おいしい」と、僕の妻が言ってる「おいしい」は違うよなあ、といつも思う。ふたりの食べ物の好みが違う、とかいう話ではもちろんなくて、これはもう「おいしい」という感覚の自分の中における位置づけの違いなのだろうと思う。


妻は新しい店でおいしそうなものを食べたがる訳だ。それは、はじめて食べるもので、写真図版とかで盛りつけられた品目の外見だけは確認できて、それをみるとなんとなく、ああおいしそう思え、一口でも口にしたらきっとおいしいと思えるような体験ができそう!と思うのだろう。まあその感覚はわかる。それに、あたらしい世界へチャレンジするのは良いことですよね。いいよいいよ、どんどん食べに行けばいいと思うよ。


まあ、僕なんかは面白くない人なので、ウィークデイの昼食なんかは、いつもいつもよく飽きないなあと自分で呆れるほど、同じものばかり食べる。ランチにおける超反動保守主義である。別にほかの店に行くのが面倒くさいとか、それが特別好きだとかいう訳でもないのだが、ほぼ毎日食べていて、やはりおいしいと思う。でも、そのときのおいしい、は、昨日と同じ味わいが今、また体験されている事の猛烈なよろこびの度合いが結構でかい。その反復性が、おいしいを加速させる。僕はたとえば、はじめて行った店で始めて食べるものを、おいしいとはなかなか思わない気がする。おいしいだのまずいだの言えるのは、どう頑張っても二回目以降でしかない。一回目は初体験という事だが、厳密にいえば初体験とは体験ではないのかもしれない。初体験。…それは常に、体験を体験するような、初回特有の特殊性の中でしか生成しないのだ。だからそれは常に、後から思い出される記憶の断片でしかないのだ。


毎日同じものを食べるとか、毎週毎週通って、最低でも週二回は食べるなどという習慣の中で、ひたすら同一の品目を食事していると、それがたとえば調理の些細な差異から引き起こされる微妙な違いを感じたり、素材の鮮度とか季節によって微妙に変化する味わいすら、感じられる事もある…ような気もしないこともない。しかし僕にとっておいしい、という食の喜びとは、そんな日々の微妙な差異を感じるとか、素材の違いを感じ分けるとか、そんな事ではまったくなくて、むしろどこまでも内面に向かう要素が大きい。昨日と今日で、味わいが違うとき、その原因が自分の身体の調子であるとか、口内のコンディションであるとか、メンタル的な作用の働きかけであるとか、そういう自分にまつわる原因である事がかすかにでも感じられると、それは僕にとってはとても、おいしい、と感じている箇所に近いところでの出来事なんだと気づく。食物がおいしいのではなくて、食物をおいしいと感じている私の身体の一機関の確認信号としての、おいしい。