My Name Is


星新一の父親は、19才までは「佐吉」という名前だったが、もう一人前だという事で父親(つまり星新一の祖父)である喜三太から一(はじめ)という名前を与えられる。そのとき喜三太は村会議員をつとめており、始まったばかりの選挙制度というものについてある程度知っていた。立候補する者の中で「おぼえるのが難しい名前」の者が自分の売り込みに苦労する事も知っていた。だから、息子にはもっとも簡単で誰でも書け、おぼえるのに苦労もない「一」という名前を選んだのだそうである。


おぼえやすい名前が良い、という話は別に珍しい話でもなんでもないけど、でもよくよく考えると、現代の世の中でそういう命名理由はわりと少数派ではなかろうか。やっぱり何かしらの思いというか、願いとか気持ちとかそういうのが込められた、そういう意味を含有した名前が普通だろうと思われる。すぐに識別できるとか、あっという間におぼえられるとか、簡単とか、だから、あらゆる意味で使い勝手が良い。みたいな理由で名前が付けられる、なんていうのは、やはり如何にも明治っぽい。一郎から六郎まで順々に…みたいな話もやはり昔っぽい。そこでの名前とはまさに、符丁であり目印であり、人間ひとりの存在というのがとても小さく、割り切られていて、ほとんど製品番号のシールをぺたっと貼って、適当に梱包して、すぐに出荷されるみたいな勢いだ。そう。それはまさに出荷である。子供というのに最初から、そういう何らかの役割への投入が見込まれている。見どころのありそうな子には村中でバックアップするとか、そういう感覚も含めて、クオリティの高い内容を出荷しようという「気概」が共有されてる。届いた先で、どうかまともにしっかりと稼働してくれよーという以上に、個人の人生に多様な意味が見いだされていない。…まあ、酷いといえば酷い時代である。今の感覚でなら酷いとしかいえない。


戦時下の兵隊なら、そのまま死地にまで至ってしまい、人生が終わる事も少なくないだろう。しかしそのような運命でもなければ、人生はそう簡単に終わらない事の方が多い。何とも奇妙な味わいの「後半」が、たっぷりと残っていて、今その只中にいる。残り時間は少ないようにも思うけど、なにか妙にもてあましてもいる。そういう独特な時間の厚みを「後半」と自覚せざるを得ない事のにがさは、明日死ぬ者には想像もできないだろう。でもそんな事を考えずに生きることもたやすい。そのにがさを苦痛に思わないで済ますのに一番ベストな方法とは、一日でも長生きする方が幸せという価値観に浸れば良いのだ。いや実際それもまた真実ではある。


かつて、戦争を背景にした人生というのが無数にあった。死を目前にして、その、なんとも単純な物語を信じるか信じないかの間で揺れ動く心が無数にあったのだと思う。戦争というのは単純であるがゆえに、嫌悪の対象にもなるし魅了される事もあるのだが、それだけの事だ。で、今の僕らも結局、今信じるに値する何かを想像して、でもそれを本気で信じるのか信じないのかで、同じように揺れ動く。戦争であろうが平和であろうが、生き続けるのはやっぱりそれなりに、とても辛くしんどく大変である。


身の程を知る、というのは大切な事なのだろう。でもまた堂々巡り的に、そういう事のために努力するという事を、信じるのか信じないのかで揺れ動く。死を目前にしている訳ではないが、時間は驚くほどのスピードで流れる。これじゃあほとんど、ゆっくりと死んでるようなもんだ。