アートは心のためにある:UBSアートコレクションより


表題の美術展を観に六本木まで。家から駅まで歩いていく途中、桜並木の脇に小川が流れている道をぬけてくるのだが、素晴らしい晴天の空で視界前方には木漏れ日が降り注いでいて地面にも脇の小川にも複雑な明暗を与えていて、それらすべてに桜の花びらが、歌舞伎の舞台かというほどはらはらと惜しげもなく散り落ちてきており、ほとんどギャグみたいな天国世界になっており、脇の小川のきらきらしてる水の表面にも桜の花びらが白くまだら模様に水の流れをそのまま固めてしまいそうな勢いで舞い落ちて溜まっていた。道ばたにも黄色やピンクや青の様々な種類の花がそれぞれ力強い発色で、ところどころ咲いていて、もう無制限放出というか視界すべてがエライ事になっている中を歩行する。このような状態の中を歩くなんてのはおそらく一年の季節の中でも今日だけだろう。


ギュンター・フェルクという作家の作品を観て、あぁこれは素晴らしいと思う。2枚を上下につなげたのが2セット、合計4枚の組作品で、それぞれの表面には鉛がびしっと貼り付いており、その上からそれぞれの画面ごとに4色の絵の具が塗布されている。補色関係みたいなかなり渋い色で、4つのカラーパターンみたいな感じだが、それらが鉛である事がさりげないながらも強い独自な感触があり、鉛の鉛自体である事にかなり依存した作品だとも思うが、それでもそれは色がびっしりとかぶさっているのだから、鉛そのものではない。鉛そのものではないが、鉛としてのぼてっとした質感やゆがみ、たわみが表面には生々しく浮き出ていて、それが被さってる色の渋さと相まって、イメージ感と物質感がとてもスリリングに絡んでいて良い。


あと、隣にブライス・マーデンもあってこれも良かった。しかしギュンター・フェルクを良いと思う感じとは微妙に違う良さである。画面の中で、紐状の線がフレームの上下あるいは左右をうねうねと行き来するようなイメージが描かれた作品なのだが、これもマチエルの抵抗感の強さとかイメージのおもしろみがとても良くて、この2作品の前だけで、かなりの長時間過ごした。ギュンター・フェルクの良さというのは、何となく言葉で説明できそうな感じがあって、単にそれが鉛だから、鉛が魅力的だから。とか言うと、完璧じゃないけど何となく理由として治まりそうな感じもしなくもないが、ブライス・マーデンの不思議な良さは、説明しがたい。この紐状の線イメージの動きというか、画面を占めるイメージが面白い、と云ってもちっとも面白さの説明にならない。不可解なのだが、しかし無視して忘却もできない面白さである。


まあ僕もさすがに美術は人並みに観てるので、もっと、何となくもっともらしいモノの云い方でそれなりにブログとかに書けば良いのだろうけど、でも元々僕なんて、少なくとも10年前の僕にとって、ギュンター・フェルク的な作品を気に入る事があったとしても、ブライス・マーデン的作品を好きになるなんて、とても考えられないような事だったよなあ、とも思う。自分にとってはその趣向の変化が自分で面白いのだ。


ギュンター・フェルクの事もブライス・マーデンの事も、全然知らないしよくわからないのだが(ブライス・マーデンは「絵画は二度死ぬ、あるいは死なない」という書籍で取り上げられていて、その本は所有しているしかつて読んだのだけど今の時点でそこに何が書かれていたのか全然おぼえてない。でもいまパラパラめくってみたら、頁の下に掲載されてるいくつかの図版の画像が小さいながら本当に良くて、おおーブライス・マーデンってやっぱいいわと思った。)


全然よくわからなくてもすごく良いと思うことはよくある。目の前の作品が一体、どのような出自の、どのような由来をもつ、どのような要請によって生み出され、そのような過程で今ここにあって、どのような外部と繋がっているのかが、すべてまったくわからないのだからある意味対処や処置が必要な不完全状態なのだけど、しかしそれらの情報から切り離された状態で孤独に作品と対面するときの、何も知らない事の幸福というのがおそらくあって、特にすぐれた作品は、何か得体の知れぬ多様な働きのネットワークを形成しており、今もちゃんとその一断面である活気が溢れているかのようなのだ。ここには何か、無視できない活発な作用がうごめいてる、なにがしかの強い働きかけがある。と、訳がわからぬながらも感じられることがあるのだ。いや訳がわからない状態だからこそ、その強いうごめきを直に感じられる事もあるだろう。まあ現実は、「知ってる」と「知らない」の中間でしかないのだが。その中間地帯で自分をかろうじて把握し、作品もかろうじて把握するしかないのだろうけど。