「ヴァンダの部屋」


ヴァンダの部屋 [DVD]


公開された2004年に劇場で観て以来の再鑑賞である。先日「骨」を観た事の余韻が消えないうちに観ておきたいと思ってレンタルしてきた。というかこの映画ってさすがに、個人的にはよっぽどの事が無い限りもう一度観ようとは思わないだろうし、実際、数年前にDVD化されたときにはもう一度観てみるかと思って借りてきた事もあったのだが、はじまってすぐの、すさまじく陰気でこちらの体調まで悪くなるような、あの不健康きわまりないヴァンダの咳き込む音を聞くやいなやもう、このあと延々三時間もこの陰気な咳き込み音を聴き続けるというのが想像するだけでも耐え難く、画面を観続ける気力を根本から失くしてしまったために、そのときは未見のまま返却したのである。なので今回は「骨」を観た余韻の力を最大限に有効利用して、よしもう一度観てやるか、と前向きに思えるかもしれないような、最初で最後かもしれないようなかなりのチャンスなのである。


三時間。長い時間である。以前の印象としてはやたら咳き込むという事と、やたらとタバコおよび薬物を吸引する事が印象的だったのだが、そうすると二回目観ると、必然的かどうかわからないけど、なぜかそれ以外のところに目がいくようになる。あの注射針を腕からぶら下げまくってる男性たちの仕草や態度とか、ヴァンダのお母さんの感じとかが印象的に思えた。それと後はやはり、あの奇跡のような光のあらわれがすばらしい。この映画をあまり「骨」と比較する事にさほど意味はないだろうが、でも「骨」という映画を作ったときに、そこらに散らばったりしてばらばらになって残った、しかしひとつひとつはとても強い作用をもたらす、そういう残滓を利用して、贅沢に思う存分にフィルム上に展開させたイメージが「ヴァンダの部屋」なのだろうと想像した。「ヴァンダの部屋」を観た後では、「骨」が如何にまっとうに映画っぽい構造をもった、本格的な正攻法な映画であるか?というのが、ちょっとびっくりするくらい改めて思い出される。光に関していえば、「骨」という映画の物語において光が降り注ぐとき、それは家政婦仕事中とか、たいていは必ず主人公たちの生活環境とは別の階級に属する場を舞台にして降り注いでいる事が多いように思われる。それがあの映画の舞台における、人々の間に横たわる落差みたいなものをあらわしているように思えなくもないというか、そういう事を感じる事も可能な程度には操作されていると思う。しかし「ヴァンダの部屋」では、光はもう、差し込むとことには差し込むし、差し込まないところには絶対差し込まない。「骨」とくらべて、光のあらわれ方がまだらになっている感じがある。そこには映画たりえようとするような配慮などはまるでなくて、ただただ、偶然それがそのような木漏れ日をかたちづくっている、という事の当たり前さであるかのように、光と影がまだらになっている感じなのである。


しかし、…疲れた。正直「ヴァンダの部屋」について何か書くのは難しい。それぞれの出来事が、本当に、あまりにも素っ気無くぶっきらぼうで、とにかく執拗なリアリズムで提示されているだけである。ヴァンダの、激しくむせて咳き込んで、それでも平静に戻るや否や素早くアルミホイルを熱し始めて、急いで口で吸い込んで、さらにすぐさまタバコを深く吸い、そのまましっかりと息を止めて、5秒かそこら身動きもせず、ひたすら神経中枢に効果をもたらすのを待ち続けて、その後ぷわーっと真っ白い煙を勢いよく吐き出して、またしばらくしてほっぺたをぷくーっと膨らませたかと思ったら、もう死んでしまうのでは?というくらいの勢いで何度も激しく咳き込んで咳き込んで、もはや肺も食道も咽喉もぐちゃぐちゃなんではないかと思われるような。。


その事にやはりげんなりしながらも、昔何でどこかで読んだ言葉の記憶があるのを思い出したのだけど、瀕死の人間は悲惨の只中にあって、苦痛にのた打ち回っているのだけれど、その本人は苦痛そのものとして在るだけで、そこには「悲惨」という観念の入り込む余地はほぼない。(ちょっとでもその余地があるのなら、その微細な余裕があるのなら、それはそれで悲劇だけど)…「悲惨」の観念に苦しめられるのはむしろ、その瀕死の人間を見つめる第三者なのだと。そこで展開されているあられもない苦しみを見つめ、彼の痛苦や悲しみを想像する事が、とめどもなく「悲惨」の観念を生成させ、それに苛まれるのだと。ヒューマニズムというのはとどのつまりその心の動きから生まれたのだと。


そういう言葉と共に、昔小児喘息を患っていた自分の記憶がないまぜになる。喘息は20代前半まであって、発作が起きるとしんどかったのだが、そのときの感触を思い出す。それって別に全然悲惨じゃないのである。いや苦痛なのだけれど、それ自体を悲惨と思うことは無い。自分を可哀想と思うこともない。別に普通に発作が出ていて、でも楽になると普通にしてるのである。ヴァンダのように。そのときの感覚を強く思い出させられる。…そう、要するに咳というのは本人よりも他人が聞く方が辛いものなのだろう。