「Meshell Ndegeocello」1stshow (ビルボードライブ東京)


ミシェル・ンデゲオチェロのライブを観に乃木坂ミッドタウンのビルボード東京へ。ああ、そういえば来日してるんだなーと思って、行ってみるかと思ったのが前日だったのだが、ウェブから簡単に指定席が予約できるのでまあ便利な世の中になったなーとか思った。


ステージは、重いものだった。これはすごい予想外な事で、結構ショックを受けて帰ってきた。何がショックだったかって、とにかく客のノリが悪いなんてものじゃないことがショックだった。ノリが良いとか悪いとか以前に、ノリが「皆無」だった。こんなステージ観たの、はじめて。


こういう事をほかならぬこの僕が感じていう事もすごい自分の中で以外というか、戸惑いがある。もともと僕はコンサート会場とかで元気いっぱい喜んで飛び跳ねるタイプじゃない。かなり地味に大人しくしてるタイプである。声援を送るとか楽しげにするとか、そういうのが苦手な方で、いつも後ろの方で、最前列に陣取って跳ねてる人を原始人か何かを見る目つきで見てた人である。


しかし、いくらんなんでも今日のステージには驚いた。たしかにミシェル・ンデゲオチェロなんて地味だし最近はさしたる話題もないし、出すアルバムもまあ、昔から聴いてる人間以外に強く訴えかけるほどの力を、少し欠いてる部分もあるのかもしれないが…とはいえ、圧倒的な技量とミュージシャンシップで世知辛い世間を逞しく渡ってるのは、その雰囲気からだけでも充分に感じられると思うし、ましてや冒頭でパワフルに回転し始めた一曲目はインストでMiles Davisの「Black Satin」である。手堅く分厚い演奏で、延々5分くらい、じょじょに熱く盛り上げてきて、このあたりでよかろうという具合に演奏が終わったら、なんとそこに拍手がまったく起きなかった。5秒も沈黙があって、どこかからまばらに拍手が…もうこれには本当に驚いた。そういうことにまったく無頓着な自分でさえ、これはまずいのでは?只事じゃないのでは?と思って、酔いも醒めてしまっていやな緊張感に包まれてしまった。


ミシェルは機嫌良さそうには見えなかった。しかし淡々と、今日の演目をこなそうとしてるようにも見えた。何というかもう、見てるのが結構キツかったのだが、それでも仕方が無い。僕だってこの空間の客なのである。この空間の客として覚悟決めて超然としてるしかない。金払ってここに来ました。ある意味恥ずかしいかもしれなせん、本当にすいません、という感じである。


ミシェルは只ひたすら唄う事だけしか考えていないかのようだった。すごく熱く唄う。今回のニューアルバムが、おそらくこういうテイストの曲ばかりなのだろう。とにかく熱く、唄う。そして炸裂するドラム。激しい演奏。おせじにもきっちりミキシングされて洗練されてるとは言い難いアンサンブル。PAの音もいまいちだ。スネアの煩いドラムと割れ気味のベース。そして力任せの演奏。そして歌。生々しい歌。


その後もミシェルは、とにかく力強く唄ったのだった。…そもそも僕にとってのミシェルは、もともと凄腕のスタジオミュージシャンで、あのSteve Colman & Five Elementsに参加したりもするようなとてつもない技量をもったベーシストで、しかしそれだけではない異種技能のあわせ技ですさまじくハイクオリティなネオ・ブラック・ミュージックを奏でる才人女性というイメージであり、見つめているものとか目指すものの高さとかが、そんじょそこらのアーティスト風情なんかとは較べようが無くて、背負ってるものの重みがまるで違うというか、やってる音楽の重みがまるで違うよというくらいの人で、僕の中でおそらくそれは、ニューヨークのブルックリン界隈の雰囲気が醸し出してるすごい厳しいミュージシャンシップに裏打ちされているようなもので、その出自をもつだけでほとんどどのような場であってもどのような相手とタイマン張っても充分にやってけるような人で、別にマドンナのレーベルに居ようが有名なアーティストのアルバムに参加しようが、そんなのほとんど瑣末な事で、要するにあの凍て付いたブルックリンの空気を震わす冷たいファンクネスを醸し出せるか否か?というところで強く輝いている人だったのだと思う。


ミシェルは今、そのようにはベースは弾かないのだが、しかし力強く、誰が聴こうが誰からも無視されようが、ひたすら唄う事を選択しているようにも見えた。演奏もかつては若干ながら感じられた相対主義的・教養主義的な参照癖をすっかり無くして、シンプルでストレートなものでしかなくて、しかしそれでも今はそれしかないと思っているのだろうと思う。…だから、たぶん僕が僭越ながらここで言いたいこととしては、ここでのこの演奏が良いとか悪いとか、そういうのをあまり簡単に言ってほしくない、というような感じの事で、これはあるミュージシャンが十年以上のキャリアの中で、今、こうなるよりほか無かった結果として鳴らされている音楽なのだ。だから、それを聴けと。そして、ちょっとでも良いと思ったら喜べ!拍手しろ!と思った。それを良いよ!!と言ってあげなくて、何でライブなのか??(いやだから僕にはそんな事をいう資格はないけど)


…形式的なアンコールも含めてライブは一時間で終了。苦い後味。でも僕もこの会場の客であるから、それを自覚して超然としていなければならない。このライブはつまらなかった。僕のせいで詰まらなかった。僕はダメになってしまい、僕を含む日本の客はこの十年くらいで決定的にダメになってしまって、ミシェル・ンデゲオチェロが気持ちよく、楽しく、ノリノリで演奏することができない国になってしまった。そういうファンの厚みを失ってしまった。「東京ミッドタウン」にボケ顔で集まる人間だけしか居なくなってしまった。とか何とか。とか何とか、言ってるともっともらしい感じの、この世を憂うみたいな文章もどきみたいだが、まあどうでもいいというか、単にもっと場末のライブ場に行けば良いだけの気もする。そういう風にしないともう、だめなのだ。もうこれからは「東京ミッドタウン」とかに行ってるだけで、決定的にダメになってしまうのかもしれない。いや実際、マトモな何かを観るとか体験するとかって、もはや体に負担をかけて心に重荷を背負うのと一緒だ。それと変わらないのだ。それをわざわざ好き好んでやるのが、作品に触れるって事だ。それが嫌なヤツに、作品を体験する資格はないのだ。逆に、それを味わうために、もっと自分をセットアップしないとダメである。そうでもしないと、恐ろしいことに、驚くべきことに、あのミシェル・ンデゲオチェロのライブを観にいってさえ、なんとも哀しい気持ちにさせられてしまうのが、今の世の中なのだ。。それが今回は肌身にしみてよくわかった。