「墨東綺譚」

「少しは小降りになったようだな。」
「宵の口に降るとお天気になっても駄目なのよ。だから、ゆっくりしていらっしゃい。わたし、今の中に御飯たべてしまうから。」

(中略)

女は茶漬けを二杯ばかり。何やらはしゃいだ調子で、ちゃらちゃらと茶碗の中で箸をゆすぎ、さも急しそうに皿小鉢を手早く茶棚にしまいながらも、頤を動して込上げる沢庵漬けのおくびを押さえつけている。

(中略)

「歇んだようだ。また近い中に出て来よう。」
「きっといらっしゃいね。昼間でも居ます。」
女はわたくしが上着をきかえるのを見て、後へ廻り襟を折返しながら肩越しに頬を摺付けて、「きっとよ。」
「何て云う家だ。ここは。」
「今、名刺あげるわ。」
靴をはいている間に、女は小窓の下に置いた物の中から三味線のバチの形に切った名刺を出してくれた。見ると寺島町七丁目六十一番地(二部)安藤まさ方雪子。
「さよなら」
「まっすぐにお帰んなさい。」

主人公は帰る。来て、只何という事もなくそこに居て、少なくとも描かれている事は、お雪の様子をみたりそれ以外を見たりする情景だけで、それでひとしきりすると、音も無くその場を立ち去る。大抵、客が来るのでそれと入れ替わるかのように、すっといなくなる。読んでる我々は、すっといなくなったりするのが主人公であると同時に自分自身でもあるような感情の移入をしているから、立ち去るときにほんの少し心が軽くなるような開放感すら味わう。でも結局のこの小説で主人公がお雪の元へ行き、一緒の時間を過ごしたのは如何ほどの時間なのか?逢瀬の回数は三回とか?四回とか?なんとも淡白で、少なくとも淡白な内容しか書かれていない。というか、絶望的なまでに白けた気分に無理やり絵の具をのせて、恥ずかしさを堪えて最小限の描画を加えて、かろうじてまがいものの伽藍ができた、この墨東綺譚という小説自体が、そのようなきわめて儚く脆い構造でできているようにも思える。


この手の物語をしたためるなら、ここは普通こうだろう、とか、この語りでは人も納得しないだろうとか、いたるところに散りばめられた作者自身の含羞と韜晦の言葉も面白い。これみよがしにそういうつまらない自意識の犠牲になっているのが、お雪という女性のイメージで、ここではもう、あえてお雪をないがしろにする事で、はっきり「俺の都合・気分」だけが最上級の価値をあたえられているようにもおもわれる。それはけっこう酷い話であるが、もちろんお雪が読者からそのように思われるであろうことも作者は計算しているのであろう。お雪のことを語り終えてから、その後、小説が終わるまでの、お雪とは無関係にだらだらした語りの、いわば余計なところが異様に長く、とにかく最初から最後までどうでも良いことがいっぱい差し挟まれているのが素晴らしい。酷いと思われるだろうけど、そう思われても、それは俺にもどうしようも無いことなんだよ、という顔で、平然と無関係な話を続ける。


だからそのようにあえてないがしろにされたお雪のイメージは、それでもそれゆえに、荒く素描されただけのお雪という人物がうつくしくて魅力的であるがゆえに、イメージは断片化された、風景や光や空気中に舞う埃なんかと同等のものであるかのようだ。というか、はっきりと主人公はお雪に「明治の頃の自分が若かりし頃の懐かしい日々」を見ているのだが…。それはまるで現実を遊興としてしか見ない徹底性で裏打ちされているのだが…。この小説の中の「お雪」という女性の淡さ、儚さ、部分しかないスカスカな感じ。穴だらけで、朽ちる寸前の薄い紙のような。…結ったばかりの立派な島田と、白い首。あとは、いくつかの言葉の記憶だけの。やがて不意に意味も無くフェードアウトしてしまうだけの。あとは主人公の座っている場所と、お雪の腰掛けてる窓枠までの間の空間、そこに差し込んでる光と空気の密度。蚊の飛ぶ羽音と蚊取り線香の煙。。もともと主人公のつまらないノスタルジーによって要請された世界でしかないのだけれど、しかしそれとは無関係に、いやそれゆえにはかないがゆえに、現実の描写が強い吸引力で迫ってくるのだ。


この主人公の、ひいてはこの作者の心無さ。自分勝手な姿は、それを読む僕たちの心無さでもある。恥ずかしげも無く、平然と、自分勝手に、うつくしきものを一方的に見て味わおうとする心無さ。人間の強欲で自己中心的でわがまま勝手な心無さが、その場でこのような部分的な記憶の残滓のような女性を造形している。というか女性のかたちをした記憶の残滓といったほうが近いかもしれない。あくまでもその場で出来ているイメージなので、後から関係や態度について第三者的な立場を幻想してどうこう云っても無意味。これは現実的にたまたまこのようになっている、という感触。


物語は、どう語られるべきか。嘲笑されたりせず、最低限、人から笑われないようなやり方とは、どんなものだろうか?ここらでもうちょっと、軽く一目置かれるような、さすがにまだまだ衰えてはいないねとつぶやかせる事が可能な一文を差し挟む事ができるか?今、ここで、このように終わらせるべきではないか、もう少し引き伸ばすべきではないか?私に興味があるなら、以前の作品にあたると良いなどと幾つかの既刊も紹介しつつ、たった今語っている筈の物語から、隙あらばさっと身を遠ざけようとしている。語る事に本気になったら負けだと思ってる…この小説の作者は、ひたすらそのような韜晦のことばだけを並べ立てている。全体の三分の一が、そのような韜晦の言葉だけでできてるようにも感じられる。お雪さんなんて、全部あわせても10ページくらいしか出てこないんじゃないか?…おそらくこのような小説にするだけの事で既にかったるいし、気恥ずかしいし、やる気もない。白けてくる。でも何とかでっちあげたくて、余計なことをいっぱい書きたくなってしまう。それでも何とか書く。息も絶え絶えに、かろうじて、成り立たせる。何か、小説らしきものになる。1937年。墨東綺譚が東京大阪朝日新聞に連載開始された。…これはんとうにうつくしい小説。美しいお雪のでてくる話。