御茶ノ水で何も買わずに帰る(CDを除く)


御茶ノ水まで行って、レコード屋をちょっと見たり、神保町の古本屋を何軒か見たりする。本はもう、家に未読が死ぬほどいっぱいあるから、当分はあらたに買わなくて良い、というか、買うべきではなくて、その状況がここ数ヶ月の間ずっと続いている状態なのに、ふらふら歩いているとつい、「購入スタンバイ」モードになってしまうので、自重して歩く。でも、本は何とか買わなくてやり過ごせても、モノがCDになると、自分の場合この自重する抑制力が、極めて低くなってしまう。。大体ここ一ヶ月で、僕はいったい何枚のディスクを購入しているのか??もはや自分でもよくわからない。でも今日も、いそいそとなんか買ってるよ。でもさすがに一枚だけにした。というか、なにしろ家を出かける直前にも宅急便が来て、HMVから箱が届いたりしていたので、お前マジでどんだけ買ってんだよ、後、年内だけでどんだけ届く予定だよ、みたいな、妻の視線も最凶に険しいので。。


駅前の丸善の前で、来年のカレンダーとか画集とか、革製品とかそういうのが露店販売していて、かなり薄汚れた感じのTASCHENのマティス画集があって、なんとなく手にとって見ていたら、載っていたいくつかの作品図版がすごく良くて、うわーと、強い衝撃を感じた。


画集に載ってる作品を観て、あらためて「うわーすげえ」とか思う瞬間というのは、別に画集としてのクオリティが高いとか、印刷が良いとか、そういう事とは関係ない。印刷がよければそれに越したことは無いが、でも作品図版を見ても、印刷のよさに感動はしない。あくまでも作品に感動する。単に本屋の棚で偶然見かけた画集のよく知ってるはずのマティスのあの感じが、そこで改めて、すごく強烈に作用した、というような事で、あぁそうそう、マティスの快楽というのは、こういう感じだよなあと、冬の外気の下、頁を何度もめくりながら、改めて実感するしかない。


まあ当たり前だけど、画集で作家の仕事を手元の作品集でコンプリートしたい、とか、カタログレゾネを持っていたい、とかいう欲望は、作品体験への欲望とは別である。マティスに限らず、画集を買うとき、どうしてもその作家の作品群が、なるべく質の良い印刷で、大きく、精巧に図版印刷されている本を買いたいと思うし、できるだけたくさんの作品をなるべく少ない冊数で網羅できれば良いと思う気持ちもあるけど、いくら立派な画集を何冊も家に所蔵していたとしても、こういう風に、偶然ふと目にするときの衝撃というのを「入手」することはできない。その画集を既に所持していたとしてもその場で「感動しないで済む」という訳でもない。


だから逆に、この本を今、そのまま購入しても、それはそれで、後で自宅でもう一度それを眺めなおしたときに、今の感激をふたたび再現させることが出来るかといったら、その保証もないのである。だから結局買わなかったけど、買わなくて失敗だったかも、という後ろ髪を引かれる思いだけはいつまでも残る。(最近、本屋とかで画集を見ていて買わずに帰るとき、似たような思いにとらわれる事が多すぎる。)