夜の陸上


妻は、早寝早起きの人で、真夜中まで起きている事などほとんど無い人なのだが、昨晩は起きていた。テレビで世界陸上を見ていたからである。


妻は、陸上をテレビで観戦するのが好きな人なのである。数日前から、ベルリンで世界陸上が始まるからというので楽しみにしているのはわかっていたのだが、まさか徹夜してまで見るほど、気合が入ってるとは知らなかった。早めの夕食を終えた後、早々と寝てしまい、午後10:00に起きてきて、そのままひたすらテレビの前にかじりついていて、その集中力と根気は、いつもの妻からは想像もつかないようなもので、普段あまりお目にかかれないような一面をみたようで大層驚いた。


一番のお目当てとしては要するに、100mの準決勝と決勝を観たかったようである。「録画では全然意味が無いんです」と言っていた。…しかし、午前零時を過ぎても、100mは始まらないのである。そのうち、痺れを切らした顔で僕のところまでやってきて「いつ始まるんでしょうか?」と僕に言った。


僕は「インターネットで調べればいいんじゃないでしょうか」と言って、それで調べたら、100mの準決勝開始時間は午前2:10、決勝は4:35と出ていた。妻はそのタイムスケジュール表を無表情に見つめていた。やがて「少し寝てもいいでしょうか」と口にした。僕は、午前2:00なら普段でも普通に起きてる時間なので「ああいいですよ、どうぞ、起こしてさしあげますよ。時間がきたら」とこころよく頼みを引き受けた。


そして2時間ほど経過したので「そろそろはじまりますよ」と妻に呼びかけたら、妻は起き上がり、しばらくするとまるで餌をもらう前の犬のように、かなり嬉しそうな態度で、そそくさと再びテレビの前に戻ってきた。そして、無事、準決勝のレースを見た。僕は、こんな真夜中に、妻と二人で起きている経験がほとんど無いので、今のその状況に強い新鮮さを感じていた。普段のこの時間は、僕にとっては、一人の孤独な時間であることがほとんどであった。


準決勝のレース内容は、きわめて激しく厳しいものだった。9秒台で走ることが出来ない者のほとんどが落伍してしまった。しかし一握りのトップアスリートたちは、笑みさえ浮かべながら、易々と驚くべきタイムを叩きだし、決勝へのエントリーを当然の如く確実なものとしていくのであった。


勝者と敗者がまたしても選別され、いよいよこの後、決勝はさらに約2時間後である。明日は平常どおり、二人とも朝から出勤であり、一応、録画予約を提案してはみたものの、妻は「私は決勝までこのまま行きます」と名言した。僕は限界であったので、妻と僕は本日、ひとまずここで別れた。僕は横になると、すぐ意識を失った。


…奇妙な夢からはっと目覚めて、枕元の時計を確認すると、午前4:30であった。睡眠の狭間にぽっかりと空いたエアポケットに落ち込んだかのように、僕は目覚めてしまっていた。そのまま起き上がり、隣室へ向かうと、部屋の明かりは依然として煌々と付いており、その下にはさきほどとほぼ変わりなく見える妻が、じっとテレビを凝視していた。僕は、妻と再会した。そして、ふたたび、あらためてこのような時間帯に妻が覚醒している事の異様なまでの新鮮さを強く感じた。空はもう、うっすらと青みがかった夜明け前の色に染まりかけていた。


ついに、決勝レースは開始された。横一線に並んだ8機の肉体が、一気に発射し、驚くべき加速を経て、白い抽象空間の先に引かれたラインを越えて、やがて脱力した。計測盤を見て、僕はおもわず、えー!?9秒58かよ!と声に出してしまった。しかしそのタイムが正式なものとなるのか、かなり半信半疑に思え、しばらく固唾を呑んで結果を見守った。結果は確実なものとなった。9秒58。そんなバカな、としか思えない結果だ。やはり何か、どこか信じられないような気もしてしまう。そんなこと、ありえるのだろうか?


タイソン・ゲイ の表情だけが、この非現実的な出来事の非現実性を、何よりも雄弁に物語っているように思えた。ゲイは2着。記録は9秒71。…9秒71で走った男が、敗北しているという事実の信じがたさ。9秒71で走っても、負けるというのが、最初からわかっていたら、人は、走る努力を続けられるのだろうか?9秒71で走りながら負けてしまうという経験は、9秒58で走るという経験と、ほとんど拮抗するのではあるまいか?…そのような、いくつものいくつもの思いが現れては消え、あまりの感情の高ぶりに、ほとんど能面そのもののような、血の気の引いた表情を凝固させているタイソン・ゲイの表情だけが、この現実と呼ばれる世界の信じがたさを伝えていた。


歓喜する者と項垂れ落胆する者のコントラストを見送りながら、徐々にすべてが終わったのだということが実感されはじめた。空は、完全に夜明けの色をたたえていた。僕は、ふたたび眠りを捉まえられるような予感が立ち上がってきたのを感じて「ではそろそろ」と立ち上がった。さっきから、始終無言であった妻も、ついに「では寝ましょうか」と言って、その場から立ち上がった。そのとき僕は、みたび、いまこの時間、覚醒している妻とふたりでいる事の、異様な新鮮さを感じたのだった。