保守


10時に起きて、コーヒーを飲んで、そのあと「グーグーだって猫である」DVDを観る。なかなか面白いのだが、まあこのへんで良いだろうと思って途中で別室に行ってだらだら。午後からは大塚英志の本をざーっと読み返す。なぜそもそも読み返そうと思ったのか、ある一節を確かめたくて読み始めたのだけどそれをやってる途中で最初の目的を忘れて、ただ順々につまみ読みしてるだけになる。「少女たちの「かわいい」天皇」に掲載されている福田和也との対談やそれ以後のいくつかの文書を読む。


…人々と共有することが可能な確固たる「歴史」など無い。歴史というのは本来、最低共有事項とかフレームとか、そういうものですらない。それはむしろ、日常の中からリアルタイムに紡いでいかなければならないものだ。その自覚と覚悟ができたとき、それこそが、信じるに足る、愛するに足る「歴史」なのだ。だとすれば、弱さや過ちをも丸ごと抱えて、そういう「歴史」を丸ごと受け入れていくよう努力する事でしか「保守」は成立しないのではないか。…という理解は、はじめて読んだ当時とは、また違ったものかもしれないが、いずれにせよ当時は強い衝撃を受けたことを思い出す。これを読んだあと、僕は江藤淳を読み始めたのだった。


磯崎憲一郎の言葉で「仕事と家庭で自分を使い分けるのではなく、まず人としての行き方があって、それを仕事とプライベートでいかに統合し、提示していくか」というのがあって、これについてしばらく前から考えていた。磯崎氏にとって作品を作ることとは「世界全体をいい方向に導いてる力に連なる」ことであり、30代で再び文学に戻ってきた理由のひとつとして、子供が生まれたことをきっかけにして「これはもう自己表現ではなく、外界に働きかけ、奉仕して生きなきゃいけない」と思ったのだという。


仕事というのは、自分の目の前にある問題に取り組むことで、それは会社の仕事だろうが自分の仕事だろうが、まったくかわりない。それをやる目的は「カネのため」でもいいし「自分のため」でもいいし「上司に褒められたい」でも「家族のため」でも「人並みであるため」でも、何でもいいのだが、しかしそれでは結局どちらも立ち行かなくなってしまうものだ。結局は、仕事へのモチベーションというのは「世界全体をいい方向に導いてる力に連なる」と信じることが出来る、という事でしかないのだと思う。その世界、というか、歴史のようなものが、信じるに足ると思える、その思いの強さだけが、仕事を進める力になる。


自分の個人的なことに焼き直して考えたら、結局は、要するに、もっとラクする方向にもってくか、ベタに真正面から立ち向かうか、という話だとして、でもベタに行くしかないのかなあとも思う、もっとラクする方向にもっていくように、徹底的に技術をこらすのも悪くないとも思っているのだけど、僕なんて結局は信じられる何かによって起動するモチベーションでしか動けない人間なのだから、だとしたらやっぱり苦労の多い方に行く可能性が高いのかなあと思う。あーやだなあと思う。自分だけがしんどいならともかく、人にも何かを信じさせて、共にしんどい思いをさせるというのも余計にやだ。改めてめんどくせーなーと思う。でもまあ、細かく適当に手を抜いて、コソコソと息抜きしながら今まで通りやるんだろうなあとも思う。なんだかんだ言っても、自分は15〜6才の頃から今に至るまで、見事なまでに何も変わっていないなあと思う。ベタにしんどい場所に行って、ベタに苦しい顔をして、何も良いところが無いけど只なんとなくダラダラ「耐えてる」だけみたいな。。そんな事でいいのかはわからない。でもそれ以上は無理だし。そこが自分の限界である。


崖の上のポニョ」DVDを観る。やはり町が嵐にあって水に沈んでしまってからの、宗介とポニョとの二人の船旅の場面がすごく好きだ。去年の夏、これをはじめてみたとき、あぁ世界はこれで終わってしまったんだ、もう何もかも無くなってしまったんだ、みんな安らかにどこかへ帰っていくんだ、と思ったときの事を思い出した。またこの映画はやっぱり、リサという母親の存在感がとても素晴らしいのだと改めて感じた。もし再度この映画を観たいと思うことがあるとすれば、それはリサを観たいからだろうと予想できるくらいだ。


総じてダラダラした一日。いつまでダラダラするのか。たぶん、こういう事ではいけません。