距離


作品と私がいて、その間に適度な距離があるというとき、その距離とは何か?それは私によって準備されたものか?しかしそこに適度な距離を認めたとき、既に私は作品を感受しているはずで、その事後作用としての、その影響がもたらした距離である事も否定できないとも思う。であるならば、その距離とは作品の一部だろうか?


「心が激している時には誤って愛するが、本当に愛するには落ち着いて愛さなくてはならない」という格言がある。やや安っぽいが、まあそうかもね、とも思えるようなそういう言葉ではある。その格言のとおりに、作品に対して落ち着いて接しないといけない、などと思う事もあるとしたら、でもそれもまた変な話だとも思う。作品なんて、観て心が激するか、なんとも思わないかのどちらかでしかない。落ち着いて作品を観る、なんていう状況が、本来ありえない。というか、おちついて作品を観る必然性がない。


他者は他者で、勝手に存在していて、私は私で、勝手に存在していて、原則として両者は出会わないし、仮に何かの弾みで出会ったとしても、それは別に事件ではないし、衝撃でもないし、なんら特権的な特筆すべきことでもなく、出会ったことと出会わなかったことは、突き詰めれば等価である。というのが、もっとも基本にあるというのが望ましい。


それをそうじゃない事だと思ってしまうと、あらかじめそれに向けた準備が発生してしまい、結局出会いを消失させる。わざわざ出会いを消失させることは愚鈍なことだ。すでにあらかじめ、他者を前にしたときのためのよそ行きの洋服を常に準備しているという事になってしまう。


というか、他者を頭に思い浮かべた時点で、もう既に他者ではない。想像力の外側にいる人のために祈る、という事の難しさは、ここにある。


2000年代における、ある意味もっともうつくしいミックスCDと云っても過言ではないJ Dillaの「Donuts」の元ネタ曲ばかりを集めたコンピレーションアルバム「Recipe For Tasty Donuts」を聴いていて、あまりの驚きに陶然としてしまうばかりだ。


コンピレーションアルバムというのは、つくづく暴力的だ。このうえなくうつくしい楽曲ばかりが、何の文脈も関連性もなく、いきなり唐突に、一枚のディスクのセットリストとして並べられてしまう。そして、連続して再生させられてしまう。J Dillaはあろうことか、これらを切り刻み引き伸ばし、思いのままにつなぎあわせて、すべてが渾然となったとてつもないミックスを作り上げて、そして死んでしまった。


という人の人生の物語すら馬鹿馬鹿しいほどどうでもよくなってしまうほど、コンピレーションアルバム「Recipe For Tasty Donuts」の楽曲群たちはそれぞれがうつくしい。うつくしくて、はかなくて、おぼろげな様子で、可愛らしいしぐさで、可憐な身のこなしで、ただそこに在る。


それらはまるで、金魚のようだとも思う。水槽の中で、ただひたすらゆらゆらと泳いでいるだけの、ただひたすらきれいで可憐なだけ。そして、何かある種の、何か根本的な間違いを含んでいるかのような、何かいま水槽で、おまえたちが今ここにこうして泳いでいること自体が、そもそもの根本的な間違いであるかのような、本当はこうなることなど最初から誰も望んでいなかったにもかかわらず、行き着く果ての成れの果てで、なぜかいま、こうして、見るも凄惨なすがたで、おまえたちが今ここに、ただひたすら泳いでいるのを、この僕が何かの罰を受けるようにしてまともに見せ付けられている、かのような…そういう、何かよくわからない、何か妙に禍々しさを感じさせるような、日のあかるいうちは隠しておきたいような、ある種の健全性の欠如、健康にまっこうから反駁する行き着く果てのない反駁と浅はかな媚態と見え隠れする小賢しさとそれらすべてを包むかすかな悔恨との、それらが混ざり合った何かとしての、金魚、としての、音楽。


これらを聴いている私と、これらの楽曲との間に生じている距離とは何か。それを適度なものに調整することはできるのか?それをする意味はあるのか?…いや、おそらく僕は、音楽を聴いたあとにある種の喪失感を感じていて、それを取り返したくて距離という言葉を使っている。