後悔さきにたたず


群像に載っていた小説「後悔さきにたたず」相当面白かった。コンビニでバイトする「サイトウ」が主人公の話。この主人公の、自分の周囲を取り巻く様々な事象というものに対して、原則として自分はニーズに応じて出動するための存在であるという認識があって、世界というか、周囲の事象というか、自分を取り巻く環境にとって、自分が役に立つということと、皆がフェアな地平に立っている、という事のゆるぎない信仰をもっていて、だから外部からある意味無茶な要求を受けてしまった場合なら、あわてずに適切な優先順位によって要求対処しようとして、場合によっては遅刻や遅延を生じてしまう事も在り得るというかシステムの仕様上やむなしとも認識しており、その最終的な成果に対しては比較的無頓着というか、全体に対して占める自分の責任範疇を自分で厳密に意識している感じである。それも安定した全体への信頼があるから、そのように自分をカプセル化された一ファンクションとして認識できるのか、いや逆に、全体をまったく信用していないから、自分のIn&Outだけでも理路整然とさせたいのか…表裏一体な感じでもあるが、だからサクライが客に対して感じている「手に持った商品を戻す、その戻した商品を次に買う人がいる。その見えない相手に、…その自分とは関係ないようで関係のある見ず知らずの人間に対して、チームワークにも似たある種の一体感を抱くことが、サクライの思う人の品格」…というのも、ここで期待されているのは人の品格というよりは整然としたインプットとアウトプットの整合性のようなもので、その整合性への信仰を同じくする何かへの呼応、といったようなもので、大学の研究室のゴミの分別・洗浄・袋詰め・ごみ出し…をひとりで実施しているところでも「エコとは無縁のサクライがそうまでする理由は、図書館裏の集積場所に集められた他の研究室のごみの中に、稀にではあるが規則通りの丁寧な分別を見るからで、そこにはごみを「捨てる」という概念はなく、ごみを「渡す」という概念がさまよっていた。そこに縁があり、その快活な仕事にサクライは駆り立てられるのであった。」ここでも問題にされているのはちゃんとした分別をしているどこかの誰かへの共感、というよりは「渡し方」つまりインフラ処理されるごみの適切な出力形式での変換作法であり、やはり整合感のあるインプットとアウトプットの関係と、それをどこかで担っている別のファンクションとしての何者か、への呼応なのだと思われる。「…夜勤の十時間の仕事、--その仕事は、やってくる客の量で、早く進んだり、遅く進んだりする仕事であるが、常に十時間半かけ、常に十時間半かかるのは、入らなそうでおみやげまできっちりと入る、旅行かばんに似ている。」とある。主人公を安定した状態で維持してくれるもののひとつがこの、非常によくできた旅行かばんのクオリティで、そのフレームへの信頼だとも言えるだろう。実際ぼくもこれを読んで、こういう「システム」は人が作ったんだなー、しかもほんの数年前とか十数年前にできたものに過ぎないんだよなー、そういうものを作ってしまう人というのが、この世にいるんだよなあ、良し悪しじゃなくて、これって本当にすごいことだよなーと思った。とりあえず「現場」というのはいつも人間ドラマみたいなものが起きて、それだけでいくらでも過ぎていくが、その土台となるフレームの構築というのはやっぱりすごい。ものすごく非人間的でおそろしい所業である。そのフレームの中で、自分が巨大なインフラの一ファンクションであるという認識を基盤にするという、それ自体はまったくありふれているが、しかしやはり、そこからでなければはじまらないのである。最後主人公は、自分のしてきたことをお茶碗に盛られた白いご飯を毎日決められた分量残さず食べただけ、と思うのである。この白いご飯の仕上がりこそがシステムのクオリティなのである。とはいえ、後半の様々なエピソードは前述した捉え方では捉え消えない面白みに満ちている。7万円の上着を買うときの事とか、状況を調整しようとする金髪の白スウェットに対する気持ちとか、そして終盤の気絶した客放置とか。…そういえば関係ない話だが、僕はコンビニとかスーパーで買い物をして、レジで会計するときは基本的にいつもなんとなくいい人っぽい感じにするようにしている。いやいい人っぽいとまで言うと言い過ぎで、別に普通の客の態度に過ぎないのだが、とりあえず何か言われたら、はい、かいいえ、は、ちゃんと声に出しあて応答するのと、お釣りを渡されてありがとうございましたまたご利用くださいませと言われたらはいどうも、という感じで軽く感謝の意を込めてちょっとお辞儀をするようにしている。なんだそれだけか、と思われそうだが、それ以上やる必要もないだろうと思うから、まあそんなもんだろうと思ってやっている。要するに、やーご苦労さんだね。お疲れ様だね。がんばってね、という気持ちを込めているつもりである。店員も色々で、なかには態度のどうかと思うやつもいるし色々だが、でも基本は全部そのようにしている。要するに私はあなた方のやってることとかあなた方のその状況というものに対して、ある種の共感というか親近感というか、そういうものを感じてますよ、というのをかすかに態度であらわそうとしている、のだと思う…などと書くとあまりにもウソくさい。さすがにそれはない。そこまでは思ってないが。でもまあ、そういえば今日も、コンビニでビールを買ったとき、若い子が会計してくれてキレイな長い爪の手でお釣りをくれたのだが、その子は普通にレジをやってくれて、最後にお釣りを手渡す瞬間は、ありがとうございました…とか口では言いながら、その顔の向きが僕ではなくて完全に横の窓の方を向いていて、そういうのも結構、すごくその気持ちはよくわかる。その手渡す瞬間まではかほぼ完璧に対応していて、フィニッシュの直前であえて外して、客に向かって余所見をする自分を見せるその気分というか、そういう風に「仕上げたい」気持ちというのが、なんかわかる気がするのだ。…と、こういう書き方でもあまり良くなくて、これだと若い子の気持ちがよくわかってそこを汲み取れる私…みたいな空気になってしまうのが駄目だ。なのでまあ、単に基本的にいつもなんとなくいい人っぽい感じにするようにしているだけの事で、そこにそれ以上の意味はなく、説明すべき事もなく、説明すべき事が生じない程度の行為を選択するように判断しているのだろうが。とはいえさすがに、商品の陳列状態をうつくしいままに維持しようなどという気持ちはまったくないが。というか、別に気持ちがわかるとかわからないとかそういう時点でかなり馬鹿馬鹿しい妄想に過ぎないし、何を見ようが何を見まいが、誰かが見ているものあるいは見てないものと交差は起こらない、というか、起こるかもしれないけどそれを楽天的に構えられない。だからまあ、コンビニじゃなくても、どこもかしこも、本当にすべてがこの小説に書かれている感じで、その意味ではものすごくリアルな小説であり、主人公の思う事や行動に、何一つ不可解な点もなく、すべて納得できるような感じで、やっぱたしかにもう、社会の内側というものは、ぼくも含めて全員が、ほとんど相当、何かを思うにせよ思わないにせよもはや、かなり頭がおかしいですねとも思う。…そういえば、この小説では店長の年齢がいまいちはっきりしないと思うのだが…「年老いた身体」という表現が出てくるので比較的年配なのだろうけど、一体何歳くらいの女性なのだろうか?家族はいるのだろうか?小説全体はそこにまったく興味がないようだが、僕は気になった。それとポイントカードを持ってるかを上手く客に言える背の低いコダカが女性だというのが出てきてしばらくしてから、あ!この人女か、と思ったこととか、最後まで妙に忘れずにおぼえていた。ほかにも、色々と人が出てくるけど男なのか女なのか、どういうやつなのかが浮かび上がってくるタイミングが全体的に妙な感じに思えて、それはたぶん僕と小説世界の視線の、人に対する興味のありようの違いなのだと思うが、それが面白かった。