脳内ニューヨーク


脳内ニューヨーク」をDVDで観たが、暗いし、陰鬱だし、趣味悪い部分も多くて、いわゆるインテリ文化人的なウッディアレン的なナルシシズムがいやらしくて、なんかむかつく感じもあって、決して良いとは思わないのだが、でも観賞後には強い印象をもたらす映画。まああまりにもバカといえばバカなので笑おうと思えば笑えるような気もするけど、気が滅入る。観てから二日経って、すでに細かいところとかを忘れかけてるのだけど、でもなんとなく、数日後にもう一回観てしまいそうな予感もしない事はないという、ある意味ハマってる自分を自己嫌悪してしまう感じもある。


自分をも包み込むような巨大な「作品」に、とにかく何もかも詰め込もうとして結局何もできず、ついに最後までそれを完成させられない、というのは、自分を寛がせてくれる甘いロマンスであって、おそらく「作品」というのは実のところ、本作の主人公のやり方とはまったく別の方法でできるはずのものではないかという気もする。もっと軽快に、さくっと、簡単に、コンパクトにできるはずではないか。主人公のやってる事は自分の枠の中に逃げ込んでいるだけで、そのまま甘美な死が自分を迎え入れるという事態の甘く切ない物語をひたすら求めているだけのようにも思う。


とはいえその枠内は、やはり抗いがたく魅力的なのだ。それは「作りもの」だけが感じさせてくれる固有な強い魅力だ。その枠内で、もはや老人になった主人公やその他の登場人物が、老けた顔で、つまらなそうな表情で現場を歩き、仕事をすすめているシーンを見ているとき、前述した理屈とは別の、何とも知れぬ、むなしい幸福感ともいうべき複雑な感情が湧きおこってくるのも、またたしかなのだ。


生活し、仕事を進め、家庭は壊れ、奥さんとはついに向かい合えず、娘も失い、人生において費やしてきたすべての出来事・物事・思いは、何も完結せず、結実せず、あらゆる人物やあらゆるできかけの要素はことごとくその場から消え去って、最後には何もない廃墟のような広大な空間だけが残って、たまたま偶然そこにいた知り合いと話しながら、気づけば人生が終焉を迎えようとしている…という事の、その現実感と、絶望感と、その中にかすかにひろがる甘い滋味。年老いて死ぬ、ということの優れてリアルな描写だったと思う。終盤の「人生が終りに近づいて、自分の特徴が失われていくとき、人は車を運転するだけ。どこからともなく来て、どこへ行くでもなく、ただ運転する。残り時間を数えながら」というナレーションの言葉が素晴らしい。


あとサマンサ・モートンの、あの「からだ」は本当にサマンサ・モートン本人の身体なのでしょうか?あんなに豊満な感じの女優だっけ?どうでもいいけどそれがすげー気になる。