通勤電車で読む


頭の中に何もはいってないとき、あるいは朝起きたばかりで全てのサービスが全部立ち上がりきってないときの空虚さだけのとき、そういうときにぼーっとしたままで本を読むと、これがいいのだ。全身全霊で脱力して全方位的な勘を働かせて読む、というより僕の意志ではなく無理に読まされる。朝の通勤電車の中で、周囲の人々が視界から完全に消え、意識下からもないまま、自分と書物との通信だけにひきこもる。そこであらわれることばひとつひとつに飛ばされる。はかなさの輪郭に手で触れているような感じ。曖昧さというものの物質性を実感する感じ。なにを指し示すのか、なにがいいたいのかさっぱりわからないその一文に無限のひろがりを夢見てしまい、さらに貪欲にほしがる感じ。朝のまどろみの余韻の中でこそ可能なひろがりに身を任せたまま、電車は走り続け、変わり続ける駅名だけを意識の片隅に意識しながら。いつもと同じように。


目的地に着いて本を閉じて、ああ早く夜になって帰りの電車の中で続きが読みたいと思ってその日一日が始まる。で、夜になって、結局その本は読まない。朝の自分と帰りの自分が違いすぎる。頭の中に、削除しきれてない細かく断片化されたデータのかけらがおびただしく錯乱していて、細かな思いのかたち以前の思いが浮かんでは消え、がさがさと落ち着きなく埃っぽく、そういう気分の余韻が濃厚に残っている中の帰宅途中の電車の中では、朝読んでいた本を同じ調子で続けて読むのは不可能で、朝とは別の本が必要で、そういう本もあらかじめちゃんと用意しているので帰りはそれを読む。帰りに読む本はとにかく、お前の前提条件は良いから早くこちらのリズムと空間に馴染め、身体リズムと呼吸を整えてこちらの言ってる事を直線的に理解せよと求めてくるようなものが良い。理屈が小難しくてもとにかくこちらに何かを伝えようとしてくるたぐいのものが良いようだ。こちらはとにかく一方的に受け入れるだけで良い。僕のコンディションなどお構いなしで一方向の努力にだけ一本化すれば良いからだ。