雲雀


朝、春琴抄を読み終わって、今日は一日中、物語の中に浸ったまま、気分はずっとへこんでいた。帰りの電車で適当にぱらぱらと開いたところを読んで、なんて、いい話だろうとあらためて感じて、へこんでいた気分が立ち直った。人が目的のために、何を尊重し何を捨てるのか、守るべきもののために、勝ち取るべきもののために、情況に応じていつどこでどのように決断を下すのか?そこに果敢に挑戦し、自分を平然と更新していく佐助の躊躇なき頑張りには、なぜか不思議な爽快ささえ感じてしまう。これは一輪だけまっすぐに咲いてる花みたいな、こざっぱりとした、静かな喜びと勇気をわき起こさせてくれるかのような、とても気持ちの良い、そういう物語だ。だから余計に、最後とか本当に泣ける。春琴と佐助が、手を取り合って、自分たちが飼っている雲雀を、空に向けて放す。雲雀はしかしなぜか、もう戻ってこないのだ。この箇所、あまりにもうつくしすぎる。佐助はその後、春琴の亡くなった後、さらに二十年余も生きたのだ。死ぬのも生きるのも、なんと過酷なことか。しかし、春琴が作ったその楽曲がいま、自らの手によって弾かれ、それが自らの耳に聴こえてくる瞬間の、なんという鮮烈さだろう。生きていることの、しなやかで柔らかな、一瞬一瞬のみずみずしさ。三味線の撥がはぜるその音の、目の覚めるような感覚。鶯の鳴き声ひとつに、その鶯を取り囲む風景すべてが凝縮されているがごとく、その一音にすべてが凝縮されている。すべてがあらたによみがえってくる奇跡。それを閉じ込めたものとしての音楽。


雲雀を飼ってみようかとふと思った。まあ一瞬思っただけで絶対に実現しないとは思うが。物語中の解説によれば、雲雀は籠の中で、上に上に、どこまでも上方に飛ぼうとするのだそうだ。だから籠自体も、縦に長い形状の、高さばかり三尺も四尺もあるような変形籠が雲雀専用の籠としてあるのだそうだ。で、しかも雲雀は籠を空けてあげると、そのまま空に向かって、どこまでも上へ上へと、どこまでもどこまでも昇っていき、昇りながら鳴くのだそうだ。雲雀の愛好家たちは、その鳴き声を聴いて楽しむのだ。しかも雲雀は、十分後か二十分後か、三十分後には、ちゃんと空の上から降りてきて、自分の元居た籠に戻ってくるのだそうだ。これがちょっと劣等な雲雀だと、戻る位置を誤ってずれた地点に行ってしまう場合もあるらしいが、とにかく雲雀というのは、そういう習性なんだそうである。