春琴抄


春琴抄をたぶん明日には読み終わってしまうだろうからとても寂しい。。これからクライマックスに差し掛かる時点で言うのも早いけど、でもここに描かれていることって、実にあたりまえの、普通のことで、深く肯けることしか描いてない。なんてまっとうな、なんて実直でちゃんとした小説なんだろうと思う。自分が頼りなくよるべない気持ちのまま、ただひたすら、ものがたりの行く方向に任せきりで、その場に身じろぎもせず読むことしかできないままだ。


【春琴の日課は午後二時ごろに靭の検行の家に出かけて三十分乃至一時間稽古を授かり帰宅後日の暮れまで習ってきたものを練習する、扨夕食を済ませてから時々気が向いた折に佐助を二階の居間へ招いて教授するそれが遂には毎日欠かさず教えるようになりどうかすると九時十時に至っても尚許さず、「佐助、わてそんなこと教せたか」「あかん、あかん、弾けるまで夜通しかかったかて遣りや」と激しく叱咤する声が屡ゝ階下の奉公人を驚かした時に依るとこの幼い女師匠は「阿呆、何で覚えられへんねん」と罵りながら撥を以て頭を殴り弟子がしくしく泣き出すことも珍しくなかった。】


マゾヒズム的な、肉体的快楽というものに、僕はほとんど興味が無い。というか、そういうのはよくわからない。僕が興味をおぼえるのは、追いつめられた状況下で、あるいは、強烈なダブルバインドの下でしかあらわれてこないような、追いつめられた人間がその中であがく中でしか生まれてこないような、まったく独自な考えというのが、たしかにあるということだけだ。苦痛そのものをくぐり抜ける只中で、いったいなぜ考えというものは、研ぎ澄まされ、熟成されて色付き、そのまま高く飛翔するのだろうか。それはあらかじめ仕組まれた枠内での予定調和的な跳躍なんかでは絶対にない。なぜ人間は、不幸な目に会うほど、あたかも酒が発酵するかのように、高貴な香りを発するのか。被虐的情況の中で自分の内部に最大のポテンシャルを予感してしまうということの悦びと絶望の混交。それこそを現実として受け入れていくこと。のような。


鶯にもできることが、なんでお前にできへんねん、阿呆。