しがみつく


 何かにしがみつく、という言葉から受ける印象と違って、何かにしがみつくというのは、実際にやってみるとかなり大変なことだ。か細い両腕で対象をおさえて、両足はぎこちなく交差させて適当な突起やへりみたいな何かに絡ませて、そのまま振り落とされないようにひたすら我慢する。しがみつくなどというけど実際は、何かにしがみついてるのではなくて、自分の身体の重さに耐えているのだ。しがみつきたくないと言ってる自分を無理やりそうさせているようなものだ。自分の身体が、ああ、もっと紙のように軽ければ良かったな。それならこんな、なさけない姿のままで、汗だくになる必要もなかったろうに。自分の身体の重さ。この鈍重な厄介な荷物をどうすればなるべく長い時間忘れていられるだろうか。しがみつくのはやっぱり辛い。しがみつこうとする自分の身体を愛する気持ちを維持できない。しがみつこうとする自分の身体に、自分がしがみつくための訓練だなんて、そんな不条理な話があるものか。しかし、はっとして気付いたときに、自分の乗り物はいつもなぜ、これほどまでに扱いが難しい、鈍重な、ぴくりとも動かないような絶望的な代物に見えるのか。
 自分の身体が死んでしまっただけで、なぜこの私まで死ななければならないのか。ずいぶん不条理な話じゃないか。飛行機が離陸した直後、浮き上がって斜め上を向いてぐんぐん上がっていく。機内の窓から外を見ているなら、ものすごいスピードで横へと流れていく景色が、そのまま斜めになって、近景が消え去って視界すべてが遠景のみとなって、そして窓の外が、ああこれは、もう絶対に助からないと思えるような、まるでテレビでしか見たことのないような、上空何百メートルだか何千メートルからの、下からの映像みたいなものになってしまう。
 ビルの上層階で地震が起きると、最近は落ちるイメージをよく考える。落ちるというか、斜めに倒れるというか、とにかく目の前のすべてが崩落していくイメージだ。そのとき僕は上手い事、落下中の瓦礫から瓦礫へと渡り歩いているのだが、でもやはりそう上手くは行かないだろうとも思うし、そのようにしてどうにもならず絶命するというイメージだ。どうにもならず絶命する、という事をずっと考えている。そのように、数万人が経験したことをずっと考えている。
 一行空けずに段落を設けてみる。前からこうしたかったのだが、どうも見た目が良くないように思われて、今までは二行空けのみ採用してきた。しかし段落明けもバリエーションを増やしたい。段落が二種類使えたらきっとかなり良いのではないかという期待がある。
 子供の頃に、テレビで見たような、宇宙船の船内の廊下を歩いている。床はリノリウムで壁は巨大なパネルが何枚も連続して並べられていて、いつものことながら曲がり角のところで対向して歩いてくる人とぶつかりそうになる。対抗者とぶつかるのは当たり前。ちゃんとコーナーを写す鏡でもつけてくれればいいのにと思う。無事に曲がって少し行くと手前に女性用トイレ、奥に男性用トイレがある。
 どうも全て夢だったみたいだ。束の間の夢。あるいは幻想。正気に戻って情況を確認する。いま僕は、離陸する飛行機の車輪にしがみついているのだった。ああ、そうだった。忘れていた。もう助からない高さにまで上がった。下方を見下ろす。雲がちぎれて流れる。風がおそろしく冷たい。肉体の限界を露骨に示されたような感じ。どうやらここまでだ。死ぬときが来た。いよいよ両手を離すことだろう。両手を離したら、今までしがみついていた力が一挙に抜けて、身体がずいぶんとラクになるかもしれない。ついにそのときが来た。