練習


当時は、とにかく早く上達したいと思っていたので、朝学校に行って授業は普通に受けるが、昼休みと放課後は時間の許す限り練習である。夜になって、家に帰ってきて夕食の準備が出来て、食事後部屋に戻ってから、寝るまでの時間もやはりずっと練習である。そこまでやって自分を追い込むような快感をおぼえたかもしれない。家で練習しているとき特有の満足感があって、学校の同じ練習に励む連中とは離れた場所で、本来休息するはずの自宅で、自分だけが練習を続けていることの優越感に浸っているのかもしれないし、いつはじめてもいつやめてもいい自由の感覚が良かったということも言えるかもしれない。


家で練習するのは、なぜか学校で練習のときとは感じが違った。練習の成果がいつもと違う。それは場所や雰囲気や、練習している自分の気分が、いつもと違うからなのだろうか。でも本来は、雰囲気や気分などに左右されず、いつでも常に一定の成果を出すために練習というものはするのだから、これではまずいなとも思った。こういう風にいつもと違う成果を毎日確かめていても、自分の本来の目的とは違う何かが積み重なるだけで、それでは練習しないで別の事をやってるのと変わらないかもしれないと思って憂鬱にもなったが、自室でそうやって一人憂鬱になっているような、学校でのいつもとは違う感じそれ自体は、妙に新鮮で面白く、自分のやったことを見返してみて、どうにも不安というか、手ごたえに頼りなさを感じて、それ自体が何とも不思議な魅力ある袋小路への迷い込みのようで、僕はおそらく自分で、自分のやったことに手ごたえがなく不安をおぼえるということが、意外にもその中に面白味を含んでいるのだということを知ってしまったようだ。


あれから何年かして学校を卒業したが、結局そのときの感覚の方が、暮らしの中で人間が何かを作るときの、いたって普通にもつ感覚なのだということをわかった。学校で練習するときの方がむしろ、学校に通っているときだけの、特別な時間の事でしかなかったのだ。卒業してはじめて、そういうことがやっとわかった。だから今では学校で練習しているときの感覚の方がなつかしい。