モロイ


ベケットの「モロイ」を再び読み始めた。前に読んで、こりゃあかん、全然「読書」にならない、「読む」が成立しない…と思って一旦止めて、そのあと色々と変遷ののち、本日また読み始めることにする。5月は、実をいうと半月以上かけて、小島信夫の「美濃」を読んだのだが、これがまたものすごい半月で、最後は正直へろへろにさせられて、そしたら解説の保坂和志が、お前はどうせこの本もう二度と読まねーだろと書いてあって(そんなような気がして)、いや!そんな事はないけど…でも正直キツかったです…と思って、でも田中小実昌も、小島先生の作品はいつもしんどいからねーと言ってたんでしょ?だったら要するに全員しんどいんでしょ?とも思って、でもいつかまた来るから…と思って、その後、彷徨うように手元の適当な本を読んで、でもなんとなく煮詰まってきて、要するに何だか全部がつまらなくなってきて、それで再び「モロイ」の、前に挟んでおいた栞のところから読み始めて、前のページを繰って、さらにもうひとつ前のページを繰って…なぜか読み進むのではなくひたすら読み戻っていく。そして結局、ほぼ最初の箇所から読み始めることになる。でも大丈夫。まったく忘れていて、はじめて読むのとまったく一緒。というか、今読んでいるところの前のページを、自分が数分前か十数分前に、本当に読んでいたのかどうかさえ怪しい思いにかられるのが「モロイ」だ。なんというか、これはもう、なんというか、とりあえず今回「モロイ」再読にあたって自分の中に決めたこととして、もうこれは僕は、読み終わろうという気持ちを、完全に捨てるという事への挑戦に挑もうと思った。この手の中の本を「終わり」にする欲望を捨て去る決意をかためた。だから僕は「モロイ」を読み終わりましたとは言わない事にする。それどころか、今ここに開かれた白い紙のページの上の、文字列の今、目の前に読んでいる"これ"と、その次の"これ"と、その次の"これ"と…それら一つ一つが何かしらの目的に回収されていくのかもしれないなどとは、もはやこれっぽっちも期待しまい。しかし、じゃあでは、なぜ今目の前の"これ"と、その次の"これ"を、続けて、僕は、なおもそれらを読もうとするのか。その欲動の核にあたる部分を、まだ僕はよくわかっていない。そんなの、わからなくていいよ、俺の人生に関係ないよ、と言いたい気持ちもないではない。でも今、結局こうして、また再読の場へこうして戻ってきたということは、やっぱり何かその時間を自分の中のなにかが欲していると考えるべきなのかもしれない。っていうか、まあ他に読むものもあるけど、まあとりあえずモロイだな、と思った。今年の夏の暑いうちはずっとモロイでいいか。いや、でもまたやっぱりやめるかも。