高田馬場の頃


高田馬場駅の改札を出ると、日差しを遮られて薄暗く排気ガスにまみれたような高架下の、さほど広くもないところをたくさんの人々が行き交っていて、ごみごみ、ざわざわとしていて気忙しい。右手の階段を下ると東西線乗り場につながって行き、その入り口へもたくさんの人々が入って行くし、また同じくらいたくさんの人々が出てくる。出てきた人やJRの改札からの人や、これから電車に乗ろうとする人々が一箇所にぶつかり合い、進行の色々な方向が絡まりあって渾然となっている。で、その一部の絡まりが少しほどけたあたりから抜けて、駅出口の看板下から早稲田通りの歩道に下りて、強いアンモニア臭の漂う一角を抜けパチンコ屋のティッシュを配っている女の子の背後を通って右手に進めば早稲田の方に行ける。十年以上前、このあたりにバイト先の事務所があったのでよく来ていた。いや違う、その事務所はこのあたりではなかった。たしかさかえ通りをずっと歩いていって、富士大学のもっと先の、古びたマンションの二階か三階にあった。月に何度か高田馬場に来て、あそこまで給料を取りに行った。毎日とくに何も考えておらず、適当な日々だったが、稼ぐ金もそれに見合って、毎回ほんとうにわずかな金で、わざわざ電車賃払って受け取りに行くのがばかばかしくなるような金額であったが、でも余分な金はなく取りに行かない訳にも行かないので、仕方なく取りに行っていた。


昨日久々に高田馬場を訪れたので、久しぶりにあの事務所があった場所まで歩いてみた。迷うことも無くすぐ見つかったが、当然ながらその建物には全然聞いたことも無い別の会社が入居していた。別に懐かしさも感慨もなく、過ぎた時間の厚みみたいなものを感じたわけでもなかった。昨日や一昨日も変わらないような感じといった方が近い。それが当たり前だし、そういうものだと思っている。逆に当時の人が、仮に今もいたら、そっちの方が怖い。そういうことが、ある訳がないと思ってるから、こうして見に行っているのだ。我ながらじつにつまらない興味だ。


富士大学入り口の手前を流れている川は神田川である。あ、これ神田川なのか、と思った。そこに川があって橋を渡って事務所まで行っていたという事をまったくおぼえておらず、今回はじめて知った。昔と今では見てるものが全然違う。さかえ通りは如何にも学生向けの飲食店が並ぶ繁華街だが、当時は飲食にもまったく興味がなかったので、そのときどんな店が並んでいたのかも、まるでおぼえていない。だから今の商店の並びを見ても、まったく懐かしくもなんともなく、単に、全体的に若者向けだなあと思うだけだ。


駅前には本屋では芳林堂があり、レコード屋ではムトウ楽器店とレコファンがあった。タイムレコードも行ったかもしれない。いずれもそんなに頻繁には行ってない。あとイントロという有名なジャズバーがあるが、ここも行ったことはない。入り口のドアの前には何度か行ったことがあるけど、あのドアはどうにも怖くて、びびって開けられなかったのである。


たしかぷータロー時代が終焉を迎える日に、ぼくはやはり高田馬場に一人でいて、たぶん駅前のゲーセンでバーチャかなんかをやっていたような記憶がある。翌日からスーツを着て、会社というものにはじめて出社するという、まさにその前日で、でも当時はそれまでの生活が、あらゆる意味で八方塞りな四面楚歌な思いを感じていて、何もかも、いろいろな事に、いいかげんもう、うんざりしていたので、そうやって今更のように、取ってつけたように就職して、唐突に人並みの格好をして、明日から会社で働きます、というのは、やはり自分にとっては相当奇妙な夢みたいな、というか、妙に楽しみというか、ふざけ半分で思わず笑いそうになるというか、そういうの、一度やってみたかったんだよなあ、という、妙に浮かれたひどく人工的に増幅された高揚のような気分があった。

ゲーセンのでかいプロジェクターに前日にテレビでやってたF1中継が放映されていたのをなぜかよくおぼえている。イギリスGPで、レインレースで、ミカ・ハッキネンが終盤にコースアウトしてミハエル・シューマッハフェラーリに抜かれたのだった。雨に濡れたフェラーリが悠然とクルージングに入った画面をぼんやりと見ていた。なぜかこの映像を、このあとも忘れることはないような気がしたものだ。もうこうやって平日のこんな時間に、ゲーセンで一人ぼーっとしてることもないと思ったからなのか、雨の降ってるサーキットの中継画像がきれいだったからなのかはわからないが、おそらくそのどちらでもあるのだろう。


働くというのが、裏切りであるという気持ちも、当然感じた。今までの自分に対してなのか、友人たちに対してなのか、もっと別の、何に対しての裏切りや背信なのかはわからないが、しかし裏切りではあるのかもしれないなとは思った。今までとは違うこれからの時間すべてが、たぶんはっきりそのまま、その過去の何かへの裏切り行為であって、自分でも自覚できないようなこれからの毎日こそが、恥ずべき転向の日々に該当してゆくことに、なるのかもしれないとも思っていた。そうして、それがまた、なぜか不思議なことに、妙に小気味良いような、うきうきとした気分を増徴させるのだ。それが、小汚い、小賢しい行為を平然と行うことなのだとしたら、飄々とそれをする自分にあたらしさを感じた、というのか…そう書くと妙に露悪的で偽悪的になってしまうのでちょっと違うのだが、なんというか、小賢しさへの憧れというのは僕の中に昔から強くあって、これはほんとうに僕の昔からの悪癖で、今までの自分に似つかわしくない…などと人から思われているようなことを、あるタイミングから、あえていきなり始めてしまうことの、かすかな愉悦に酔いたいような、そういう良くない傾向があったようだ。それによって新たな道をつくっているのだと強弁するための材料にするというのか、無理やり退路をつくってさらに展開させてまだまだゲームは終わらないと言いたいのか、まだ面白い、まだ食べられるところが残ってると、そう自分が思っていると、思いたいのか、よくわからない。そういう発想のもとに進もうという感覚というか、そういう幻想のありようは自分の中で今もまだ終わっていないのかどうなのか、それもあまりよくわからない。まあ個人の嗜好傾向という意味であればまだ自分の中にそういう要素もあるのかもしれない。でもどうなのか。自分は自分の今までを決して良いとは思ってないのだが、でももっと上手くやれたか?というと、そうも思わない。まあ、大体こんなものだったろうと思っている。なので、そこはあまり、まあどっちでも良いと言えばよい。また明日になったら明日で、あらたに降って沸いたように、大変なことも起こるのかもしれないし…。


ドナルド・キーン「日本人の戦争」という本を夜からなんとなく読み始めてたら、さっきまでずっと読んでしまった。それで、何か思って、こんな文章を書いてしまったのだろうか。まあ、先を見越して行動するなんてできないことだし、みんな単に、生きて金を作って何とか生活するので精一杯で、それは今も昔も何もかわらんなーと思う。良いだの悪いだの言ってるのもたぶん楽しいことだし、じつになんでもいい事にちがいない。ある状況の中で、人がうろうろしている。そう言ってみても何も始まらない。


昭和十九年の十一月くらいに、東京の空に敵の飛行機が飛来して、焼夷弾による空襲を受け、それ以降、東京で暮らすのは常に空襲罹災の危険と隣り合わせになった。疎開の必要性が現実味をおびてくる。いまの仕事をやめなければならず、現時点の生活をいったん折りたたまなければならなくなるのだ。それでもまだ東京にはずいぶん人が居た。ほかに行くところのない人もいただろうし、まあ何とかなるだろうと思っている人もいただろうし、いろいろ考えても面倒くさいし、とりあえずまあ、ここで適当に、やれるだけはやって、また次のときに必要に応じて考えて…、と思ってる人もいただろう。あくまでも僕の想像の中でだがやはり、人のそういう感じは、今も昔もぜんぜん変わらないように思う。