よく晴れている。日差しの下にずっと居ると体内に熱がこもるが日陰の空気は冷えた水のように冷たい。外を歩くのはとても快適。でも油断するとすぐ風邪引きそう。吸い込んだ冷気が鼻の奥を突き上げて痛みを伴うむず痒さになってくしゃみになりそうだがならずに鼻がぐずぐずになって眉間に皺がよる。空気が乾燥して指先や唇の端がかさかさに乾きかけている。このままどんどん目が開かなくなるかも。


東向島から押上、亀戸、錦糸町と散歩。錦糸町から総武線秋葉原へ。光のあたっている箇所はことごとく真っ白にとんでいて、大小の黒白に分けられてコントラストだけになった空間としての墨田区路地を歩き進む。木々の葉が風に揺られてゆらゆらと動く。太陽の光と風によって、同じ調子の物量感が同じ調子で揺さぶられて反復する。地面を歩く自分と、自分を取り囲んでいる閉じた空間が何度も意識された。自分の周囲が、在ったり無かったりする。その様子がたえず自分に反射する。


萩の花は今の時期が早いのか遅いのかいまいちよくわからない。ほんとうはもっとも旬な時期の筈が、先日の台風で痛んでしまって無残な状態を晒すしかないのかもしれない。しかし、僕としてはそもそも、萩が生い茂る感じを見た目それほどきれいには思わない。もっとすき間があってまばらな感じに葉がついているというイメージがあるんだけど。というかそのイメージは花札の絵柄。絵柄の萩はとてもいい感じに、物寂しい隙間をたたえた感じだけど、それも正確に写生したというよるは、萩ってこんな感じ、というぼやっとした想像イメージで指導しているとの事だ。まあ、今が見ごろと言われてる、花も散りばめてる今日見た萩たちは、ことごとく花札のヤツとは別の萩なのかも。


植物の葉の形を見ていると、この世界に存在する形態パターンのひとつを見ているようなものだと思う。また池の鯉がうようよ泳いでいるとか亀が折り重なって甲羅干ししているとかも、やはりこの世の形態パターンなのだと思う。形態パターンとは、かたちとかたちの関係の仕方のパターンということだ。たとえば小さな花を無数に付けて生い茂り垂れ下がる萩でも、池のくらい水の中に赤やオレンジのなまめかしい鯉がうようよと泳いでいる様子も、そのまま形態パターンでもあり色彩要素の再現という感じでもある。


そしたら老婆が急に我々に向かって話しかけて来た。二つか三つほど咲いていた彼岸花について、ええ、そうですね、咲いてますねと妻が応答する。笑顔の優しい、きれいなお婆さんである。強烈な厚みの老眼鏡に拡大された巨大な目がせわしなく動き続け、こちらを見ている。