Joe le Taxi


夕方にはすでに暴風が吹き荒れていた。ビルの谷間に吹き降りてくる風の威力はすさまじく、乗っていたタクシーはまるで荒波に揉まれる小舟のように揺れた。車に乗りこんでからずっと運転手は余計な世間話とか一切喋ってなかったのに、まるで悪意が込められているかのように車が揺れ続けて、さすがに声を出した。「うわぁ、すげえ、地震みてえだな…」僕もその時点ですでに外の情況に完全にびびっていて、その声にすがるように「こんなの初めてですよね?これってビル風の影響ですかね?」と聞いたら「そう、ここの道って普段でもいっつもすごいんですよ。でも今日は危ないね。あ!」突風みたいな風が、どん!と音を立てて車にぶつかり、うわー!と思うほど傾いて、元に戻ったら運転手が「ありゃー曲がっちゃった。」と呻いて、何かと思ったらフェンダーミラーが風であさっての方向に曲がってしまっていた。これはもう前代未聞だ、でも隣のトラックとかが倒れないうちは大丈夫、車が横転とかしたくらいなら、まあ死ぬ可能性少ないだろう、死ななければ大丈夫、とか色々思った。


タクシーが拾えただけでもありがたかった。


そもそも「坂中さん、タクシーで相乗りしませんか?」と広岡が言い出したのが始まり。
軽く「うん、いいよ」と答えたら
「じゃあ坂中さん、みなとみらいでタクシーつかまえてくださいね、俺は今横浜で立ち往生です。もうにっちもさっちも行かないんですよ。身動きとれないっす。坂中さんタクシーで横浜駅まで来て下さいよ。どうしようかな、うーん、そうだ東口のとこで。」
「東口って郵便局があるほうだっけ?」
「あーそうですそうです。中央郵便局とか、あーでもちょっと待って下さい。やっぱニッサンのとこの方がいいかな。ほら坂中さん三月の地震のとき難民がいっぱい寝てたあのブリッジのとこあるじゃないですか」
「あーうんおぼえてる、自動ドアで一回閉じ込められたとこでしょ」
「そうそうですそうです。あの階段の降りたとこにしましょう。あそこまで移動してますんで」
「わかったそのへんまで着たらまた電話するわ」

という流れで一旦電話を切ったのだが、僕みたいなどんくさいヤツがこんな非常時にさくっとタクシーをつかまえられるのだろうか。横浜でつかまんないってのはわかるけど、みなとみらいならつかまるのか?って、かなり微妙なんじゃないの?今鉄道全部動いてないんだから、外の人全員タクシー乗りたいんじゃないの?うだうだ考えながらビルを出た。そしたら前述の、ものすごい強風。映画に出てくる腰抜けひ弱な登場人物みたいによろよろしながら、向かいクイーンズスクエアの中に入る。


フロア内は見渡す限り避難してるだらけ。ベンチも人でいっぱい。カフェ系も全部満席っぽい。全員が携帯かスマホかノートPCで通信状態。でも地震のときと較べて、まだ多少はゆとりがあるというか、みんなそんなに切羽詰ってない感じだ。僕も別に、何時間かこのあたりに座っててもかまわないなあと一瞬思う。あぁなんか面倒くさい役目になっちゃったなあ、と思いながら、とりあえずタクシー乗り場の近くに出口を目指してつかつかと歩く。タクシータクシー。ああ、イヤだなあ、並ぶ羽目になるのかなあ。このまままともにタクシー乗り場行って最後尾並んでも意味ないよなあ、それじゃあ広岡君横浜で死んじゃうだろうなあ、その流れは絶対アウトだよなあ。でもこの状況下でタクシー拾うって、そういうことができるタイプと出来ないタイプがいるのよ。よく考えてよ、人見て物言ってよ。たとえばこれから沈む船で、数少ない救命ボートを、僕がちゃっかりゲットできるか?と言ったら、絶対それは無理でしょ。そういうのは、最初からボートに乗るべくして乗るやつというのが、いるのだ。僕はたぶん、人生の芸風として、そういうものには乗らないのよ。だからこういう状況下でも、タクシーは拾えないのよ。拾えないというか、拾う得ない、みたいな。そういう感じだ。戦争が始まったら五分で死ぬ役を進んで選ぶのよ。だからこんな風にウロウロしてても、どうせ無駄なんだけどなあ…と思いながら歩くうちに正面脇の小さな出口の前まで来た。


ドアから建物の外に出ると、相変わらず暴風が吹き荒れている。ビルとビルの谷間の横断歩道前で信号を待つ。猛烈な風である。道路標識の看板や外灯や街路樹を尋常ではない勢いで揺さぶるほふどのすさまじい風圧。人が普通に、歩くことができない。身体が前に進まない。流れるプールの中にいるようで、今にも足が地面を離れて浮き上がりそうな恐怖を感じる。何かに掴まらないと、まともに立ってるのもやっとだ。そのときである。一台のタクシーらしき車がやってきた。助手席付近のメーターがぼんやりと赤く光ってる。空車っぽい!あれに自分をアピールしなければ。可能か?もしあれをつかまえることができたら、多分俺ヒーローだな。とりあえず今、自分がいるのは、交差点の横断歩道で信号待ちしてるところ。タクシーは僕の方に向かってやってくる格好で、同じく信号待ち。ここから手を上げても、おそらく気付いてもらえないけど、でも、風に煽られてよろけながらも、やや車道にはみ出すくらい前に出て、熱い視線を送り続けて、とにかく必死のアピールを試みる。そしたらそのタクシーは、いきなりウィンカーを左折の方向にちかちかさせやがった。それってどういう意味だろうか?お前を無視して行っちゃうよという意志表示だろうか。それとも左折して徐行するよ、という意味か?色々考えてたら、信号が青になる。僕は猛然と歩き始める。車は歩行者が行くまで待つ。だから結果的には左折しようとした時点で僕に追いつかれる事になった。タクシーのドアが開いた。あ、勝った。あれ?なんかもうタクシーつかまった。超簡単じゃん。なんか容易くね?台風ちょろくね?ははっは。そのとき「おまえできんじゃん」と死んだ前社長が空から呟くのが聞こえた。


十分後、横浜駅から少し離れた日産グローバル本社ギャラリー前で広岡と無事落ち合った。そこまでは良かったが、そこからが停滞した。最初の出発からすでに二時間が経過して、道路の渋滞がかなり酷く、まだ川崎を過ぎたばかり。しかし風雨の威力がじょじょに弱まってきているのは車内から外の様子を見ているだけでもはっきりとわかった。何しろ歩道を歩いている人々が、実にふつうに歩いている。さっきまでの、猛吹雪の中を前屈みで歩いてるみたいな情況ではまったくなさそうである。さらにタクシーのAMラジオならびにGoogleニュースおよびtwitterによる複数chからの交通情報収集結果が、JR山手線回復との情報にある程度の信頼性を感じさせ始めていた。これは今、賭けに出よう、このタクシーを乗り捨てるべきときが来たようだ。広岡とそのように話す。運転手に品川駅で下ろすよう伝える。しかし品川駅前は人ごみと渋滞で地獄の様相を呈していた。やむなく駅まで数百メートル手前にて精算。みなとみらいから品川までほぼジャスト一万円。道路のほぼ真ん中で支払いして下車する。驚くべきことに、我々が下車した数秒後に、一人の女性が車道を疾走して来て、たった今空車になったばかりのタクシーに手を振り、そのまま次の乗客として乗り込んだ。思わず広岡と顔を見合わせる。あの子はものすごく運がいいっすね。うん、相当なものだね。今この瞬間、品川でタクシーを拾えた数少ない実例と言えるだろうね。そんな風に話しながらふたり、駅前まで歩く。駅前の情況は想像を絶するものだった。一瞬車を捨てた事を後悔するも、しかしよく見ると行列の内訳はほとんどがバスとタクシーと、あと京浜急行の乗客なのであった。山手線の乗客は…これもフロア全体を埋め尽くす程のすさまじい黒山の人だかりではあったのだが、しかし驚くべき日本人的整列技術というのか強制収容施設特化型気質というのか、とにかく気が狂いそうな混雑であるにも関わらず無言で順番に連続してやってくる山手線に吸い込まれていき、我々もほとんど待つ事無く内回りに乗車できてしまったのである。


一昨日の夜はそんなで以下略。今日から三連休。音楽ばっかり聴いてた。Vanessa Paradisの素晴らしいライブ盤を久々に聴く。