危機


エスの「危機」を久々に聴いたら、これがやっぱり素晴らしいとしか言いようがない。正直、いまさらイエスの「危機」が素晴らしいとか、わざわざブログに書くなんて愚の骨頂だという思いもあるが、良いものは良いのだから仕方がない。他に書く事もないしな。でも正直イエスの「危機」なんて、もう何十年も前から聴いてきて、さすがに聴き過ぎで、もう曲の新鮮さとか自分の中で見事に消滅していて、文字通り完膚なきまでに聴き飽きている曲の代表と言っても過言ではなくて、今後も、おそらく一生ずっと聴かなくてもかまわなくて、僕にとってはもう二度と、やっぱりこの曲素敵、とか思う日は金輪際来ないものと思っていたのだが、しかし何だかんだ言っても聴いたらやっぱり良かった。実にあっさり盛り上がってしまった。これはやっぱりイエスの「危機」という楽曲がとてつもなくすごいという事でもあり、僕がとてつもなく愚かという事でもあるだろうが、まあ正直ベースで、厳密に言えば、もう後半は、とりあえず聴く気がしない。そう断言して良い。「危機」ぜんたいを大雑把に三つに分けるとして、今回いまさらのように僕がすごいと思ったのは、一番最初の三分の一だけ。イントロのSEフェードインからヴォーカルがインしてくるまでのカチャカチャしたパートと、ジョン・アンダーソンが歌い出してから曲が転調するまでの、ギターとベースによるバッキングパートの部分に絞られる。曲の開始から大体八分を過ぎたあたりまで。それ以降は正直、さすがにもういい。中盤のパイプオルガンみたいなのが鳴り響くところとか後半のクライマックスは勝手にやって下さいという感じ。昔はすげーと思ったけど今はもういらない。


それにしても、この曲でのスティーブ・ハウのギターって、本当にすごい。というか、おかしい。あんな飛び跳ねるような、あんな瑞々しくも生々しいギターってありえるのか。これって、演奏がすごいのか、サウンドメイキングがすごいのか、ミキシングがすごいのか、頭の中が疑問符だらけになってしまう。今、この耳に聴こえている音が、聴こえているままであるにも関わらず、どうやればそうなるのかが、どんなに考えてもわからないという、聴こえているものの当たり前さがそれゆえに不思議という、その不思議さそのものに驚いてしまう。もちろん、プレイ自体が神業的だとも思わないし、同じ様なフレースを同じようなセッティングのギターで弾けば、きっと同じように再現できるだろうし、同じように聴こえるだろう。そんなのは当たり前で、僕はそんなことを言いたいのではなくて、あの楽曲のイントロで、あのようになぜ、あのギターは鳴る(成る)ことができたのか?という事だ。そのことが不思議なのだ。そんなこと不思議に思われても、そんなの誰にも答えようがないと、誰もが思うようなことを、不思議に思っているので、そうでもなければ何十年経ってもいつまでも変わらず不思議だなんて、そんなことあるわけもなかろう。この不思議さは、たぶんこの先、何十年も消えないような、いつまでも新鮮な謎として、イエスの「危機」に含有され続けるのかもしれない。曲のフレーズにも展開にも細部にも全部飽きてしまっても、この事だけは解決できない。つまりこの事だけは、記憶不可能で、再生のたびごとに聴くしかないという事でもあるだろう。だからこそ、こうしてわざわざイエスの「危機」が素晴らしいとか、今更のように書いているのである。


もちろんすごいのはスティーブ・ハウのギターだけではない。クリス・スクワイアのベースもである。「危機」のクリス・スクワイアがすごいだなんて、そんな事を今更書いてる馬鹿馬鹿しさは充分に承知しているし、そういうことをくどくど書くのももう、くどくどの重なりにおいていくらなんでも、全体的にくど過ぎるだろうとも思うのだが、とにかく何にせよ、クリス・スクワイアはクリス・スクワイア節でいつもどおりで、そのまますごい演奏をしていて、僕は正直、そういう個性とかクリス・スクワイアのベーシスト性そのものには思い入れがなくて、というか、ああいうピック弾きでバキバキとエッジの立ったベースって、音が汚くて基本的にあんまり好きではなくて、はっきり言えばプログレのベーシストなんて基本的にみんな嫌いなので、イエスなんていうグループも実は、別にそんなに好きではないのだが、でも「危機」という曲だけは特別なのだ。「危機」と、「サードアルバム」だけで良いかな。あとファーストもかな。「こわれもの」とか、正直自分としてはどうでもいいし。「リレイヤー」もいいわ。イエスなんて、正直、趣味悪いっていうか、品性に欠けるというか、別にどうこう思うほどのバンドじゃないと思ってるんですけど、でも「危機」だけはちょっと…、これだけは、やはり違うのだ。これはもう「不幸」というか「アクシデント」ではないかとさえ言いたくなる。ほんとうに、これは、たいへんよくできました。イエスの「危機」。うん、そう。で、なんだっけ?あぁそうだ、クリス・スクワイアか。そうそう。で、クリス・スクワイアの最初のベースライン。あれはびびる。ジョン・アンダーソンの歌と一緒になって、相変わらず汚い音でぶんぶん弾いてるけど、うわーベースってこれで良いのか?って思うような、豪快というか乱暴というか幼稚というか、感覚一発というか、ほとんどボトムラインの意識ゼロ、みたいなフレースなんだけど、これやっぱり、聴けば聴くほど、ほんとうに素晴らしい。こんな汚い弦の唸りが、このときだけはとてつもなく輝かしい音に聴こえてしまう。やってることは、奔放そのものなのに、そのまま完璧に、楽曲の中で要所要所で、働いてしまっていて、まあ、言葉にしても陳腐になってしまうのだけど、これは本当に奇跡的なベース。ほんとう、よくこんなフレーズを思いついたなあとつくづく思うし、これで行けると確信するところがまずすごい。


で、順次書いてきたけど、これは音楽なので、今書いてきた事は実際には、全部一挙に、完全に同時に行われている事である。何もかもが、同時なのである。何度もおなじ事をくどくど書いているのだとは思うのだが、でも何度でも書くしかないので書くけど、やっぱりその事実はとんでもなくすごいことで、この「何もかもが同時に全部行われる」という事実一点だけで、要するに音楽ってそれだけですごいんだね、という事で、いやまさに、まったくそういう単純な事実の確認でしかないのだけれど、それ以外に何も言えない。


まあ、そんな事はどうでもよくて、昨日は朝からたしか、なぜか古めの音ばかりいろいろ聴いた。昨日も書いたけど、ヴァネッサパラディとか、ほんとうにあのライブアルバムは傑作だ。プロデュースはレニー・クラヴィッツなのか知らないけどだとしたら最高の仕事であるな。アイドルポップとかばかり大好きな人の気持ちも、こういうのを聴くとすごくよくわかる。生身の肉声の、この世の中からの隔たりと近さとの何とも切なくなるような関係にぐっと来るというのか、リアリティの近さ遠さみたいな、そういうなんというか、よくわからない感じの。


あとさっきの話しの続きをまたちょっとすると、イエスの場合、やっぱりベースもギターもなんか、あんまりベターッとしてないというところが重要なんじゃないかな。ふつう、ああいうエレキ、というか、電気増幅系の楽器って、合奏するとどうしてもベターっとする。ドラムベースギターキーボードが合わさった音というのは、もう完全にひとつのお約束としてあって、その意味ではロックとかは基本的に全部同じ音がしている。すごいクリアに録音したとか、デジタルリミキシングしたとか、そういう話も前提ありきでの細部調整に過ぎない。もちろんこれは超乱暴な話であるのは言うまでもないが、でもそれは皆無意識に納得ずくでやっているし、それに盲従するのが抵抗を感じて、そこに批評的・意識的たろうとすれば、そこはジャンル性とか成立の起源に向かうような、そういう道の音楽を追求することになってしまう、それは人それぞれだ。


しかし「危機」では、そういう話が普通に音としてちゃんと伝わってくるというのか、僕が勝手にそう思ってるだけかもしれないけど、なんか前述した前半の部分って、やっぱり何か魔法がかっているというか、本来の現実として、人をがっかりさせもすればほっと安堵させもするような、ロック音楽全般に必然的に漂うはずの、アンサンブルのいつものベターっとした感じというのが、あまり感じられないのだ。そういうこととは別の事をやれると、メンバー全員が本気で信じてしまったから、ああなってしまったのではないかと思えるのだ。つまりメンバー全員、狂っていたのではないかとさえ思うのだ。実際、本当にそうなのかもしれない。イエスのメンバーなんて、もしかしたら全員人として狂ってる可能性はある。如何にもな悪ぶりや精神的に凹んだりしない分、よっぽどタチワルな狂人の可能性もあるかもしれない。


エスの事なんかどうでもいいや。そんな事よりも、ティナリウェンの新作を買った。これ、昨日聴いたら予想を越えて素晴らしかった。ちょっと感動した。でもこんなに普通に「良くて」いいのだろうか。これだとかなり、普通にぐっと来るというか、単純に良い感じだ。でもしばらくは何度も聴くだろうな。


それと一緒に、菊地成孔の新作だと思うけど二枚組のライブ盤も買った。驚くべきことにインパルスレーベルから出てた。それだけでもう素直に、すげーかっこいいと思ってしまう。しかもジャケットも、ちゃんとかっこいい。こういう抜け目なさ、手抜きのなさは本当にすごい。しかし、インパルスから新譜を出すって…本当にすごいなあ。背表紙のところで、黒とオレンジ色で、自分のCD棚で他のインパルスの、コルトレーンとかのCDと一緒に並べられてしまうというところがすごすぎる。enjaの山下洋輔もかっこよかったけどなあ。


他にも色々買ってる。セオ・パリッシュの二枚組とか、テクノも相変わらず何枚か。セオ・パリッシュは何か出れば大体必ず買ってるけど、正直今まで、あまり熱心に聴いてない。すごく巨匠みたいに言われてるけど、実際そんなにすごいの?ていう気持ちが強い。でも今回のヤツはちょっと聴きそう。


今日は午前中から読書。黒井千次「群棲」井伊直行「濁った激流にかかる橋」横光利一「上海」を一章(一遍)ずつ読んでは次へ、読んでは次へで過ごす。あと保坂和志読み直し期間継続中で今は「猫に時間の流れる」と「明け方の猫」を。


久々に小津の作品を観ようかと言って、外付けHDDを二つばかり取り出してみたのだが、その中に小津映画は「父ありき」一本しかなく、それ以外はテレビの録画とか色々あるだけで、そこで端からだらだら見ていたら、そのまま時間が無為に過ぎてしまった。妻はもう寝てしまったが、悪いことをしてしまった。この場を借りて謝りたい。で、それとは関係ないけど、何日か前プリンスの「愛のペガサス」を久々に聴いたら、これもまたすごく良くて、それでその時期のテレビショーの映像なんかを観ていた。ほんとうに気持ち悪い、まるで共感できないような、すさまじいまでの悪趣味と変質性。I Wanna Be Your Loverの頃のプリンス映像はもうメーターが完全にレッドゾーンを振り切っている。これが「ダーティマインド」や「戦慄の貴公子」になると、ものすごくバンド然した感じな、艶やかなR&Bが埃っぽいガレージパンクと無理やり融合していくかのような感じになって、ほとんど頭真っ白で気絶させられるくらい格好良くなってしまうのだが、この時期はまだそこまでは至ってない感じ。でも充分にすごい。というか「愛のペガサス」は本当にいいアルバム。まあSexy DancerとかBambiとかすごい曲があるから、当時そういう演奏を見たらもうすでに死ぬほど格好よく完成されていたに違いないけど。


で、小津といえば昨日、東部伊勢崎線鐘ヶ淵駅を通ったとき、電車の座席位置から窓の外に見える荒川沿いの土手を見上げて、土手を走る自転車や歩行者や、その向こうのまるで書割のような青空を見て、つまり視界の半分以上が土手の斜面で、上部に色々とものが動いているのだが、これがまさに小津映画を観ているかのようで、遮るものがわざわざ画面内の前景にあるということの効果をあらためて感じた。たぶんどれかの作品中に、荒川の土手をとらえたショットも実際にあったと思うので、そんなに違う景色ではないのだろうけど。


あれが良い、あれが好きだ、というのはとても切実で取替えのきかない激しい決断だ。私の評価軸の中であれは認められるとか、そんな呑気な話ではないのだ。好きというのは、もっと切実な気持ちのはずで、全身全霊で本気ということだ。その状態自体は愚かで、そういう自分を特権化しようなどとは思わないが、しかしその切実さをまるで忘れてしまっている人間や、そういうのをはなから軽蔑している人間とは、話などできない。百年ほど前に、前衛画家たちを擁護し、支えた人々が、当時どれほど自分を賭していたか一度でも想像してみたことがあるのだろうか?それはおそらく彼らにとって、本気の賭けであった筈だ。自分の先見性を信じ、それを誇りに思い、プライドを賭けて、彼らを支えたのである。決して悲壮な決意とか覚悟などというものじゃなく、その行為自体がよろこびであって、陽気で底抜けの楽天性に支えられた、生きる行為そのものであったはずだ。そのようにして彼らは、芸術家たちと共にあたえられた時間を生きたのである。好きだ、というのは、そんな風に明るさに満ちて、自分で自分を祝福し続けるような、そんなオポチュニティの産物であるはずなのだ。