附属自然教育園


 白金台にある附属自然教育園に行く。庭園美術館が現在改装のため休館中であるが、その入口の少し先に附属自然教育園の入口がある。

 附属自然教育園が、どういう位置付けの施設なのか?というと、これを僕たちははじめ、公園だと思ってこちらへと赴いたのだが、どうもこれはそうではなかった。今、インターネットで見る限りでは、植物園あるいは庭園博物館との記述があるが、そういう感じとも違う。とにかく実際に行くと、かなり広大な敷地に原生林がそのまま存在しているというのが現実なのだった。なので、たしかにここは公園であるとも言えるが、しかし少なくとも近代的公園ではない。いや、敷地を区切って、保全しているのであれば、近代公園ではあるが、だからつまり、その方式の、もっとも原始的なやり方で運営しているというものである。

 まず非常に荒々しい自然林の姿がひたすら続く。いま自分が、港区白金台に居るというのがまったく信じられないほどの森である。始めの方の路傍植物の立て札が続くあたりは、まだ普通だが、奥へと行くにしたがって次第に鬱蒼とした樹林に囲まれ始め、勾配も上下し始める。樹林の、放置状態のありさまがかなりすごい。倒れている木を頻繁に見かける。倒れて、隣の木にしなだれかかってそのまま朽ちかけていたり、太い枝の根元から落ちて無残な断面を晒しているものや、木の周囲に太い血管のように別の種類のツタが纏いつきそれらが葉を生い茂らせてあたかも木の幹が緑色の薄手の袋をすっぽりと被ったようになっているものや、とにかく自然の旺盛な繁殖、繁盛と容赦のない腐食、朽ちた有様がそのまま丸出しになっていて、これはもはや、自然と愛でるみたいなことというよりは、僕はなぜかどちらかといえば、ゴミ捨て場を歩いているような気にさえなった。これはもちろん良い意味で言っていて、ゴミ捨て場の、見た目への配慮がない奔放さの迫力というのはある。

 また水も多く、池や沼の周辺の植物も多い。僕は湿地が好きで、箱根の湿原植生復元区なども好きで、あれは人工の面白さを堪能できるのだが、しかし湿原としては、この自然教育園内で見られるものは屈指と言って良い。湿地の迫力を存分に体験できる。それは、すさまじいものである。土と植物と泥と水が一緒くたになってまるで煮込みのようになっていて、気が狂うほどの渾然具合である。湿地自体の面積も大きい。

 このような野放しの自然というものを見ると、ふだん軽く考えているような、とても自然を楽しむどころではないと思うようなものだが、しかし昔は、これが切り取られた人工の自然だったのだから、これが人工と言って良かった。人工の鉈の入り具合が感覚的に違うことを感じる。そこに今の自分と過去の人間との生々しい違いが感じられる。附属自然教育園は全体的にも、森の中のようで綺麗や汚いという判別もほぼ意味がなく、そのような場所で僕は景色を見ながら何かを食べたり酒を飲んだりする気にはなれないと思ったが、園内の休憩できるベンチなどで弁当をつかっている人も多かった。このような荒々しい場で食事を楽しむのは僕には難しいが、戦国時代の殿様が陣を張って、自然のある区画内に垂れ幕をして、その枠の中で酒を飲んだことを想像すると、もしそれをするなら、この荒々しさに拮抗するような、極めて洗練された食材や酒の銘柄や食器類などが要請されることになるのだろうとは容易に想像された。光沢がすべるようなうつわの表面にところどころ黒く汚い泥が跳ねてしまったような激しさとしてありうるかもしれないとは思われた。それ以前に、この場所に腰を下ろすという行為が、まず何か大きな結界を越える必要があるとも思われるが。身体にじかにこれらの土や誇りや、泥や植物の胞子が付着するということに無頓着なままで良いとは思えない。あの泥に腰まで浸かっているような状態と、サンドイッチをつまんで食べるような状態とが、一緒に組み合わされることが可能な地点を、探るような困難さがある。ちなみに附属自然教育園にアルコールの持ち込みは禁止である。

 それにしても松の幹は、幹というよりもひび割れそのものと言った方が良い。あのような表面はいったい何なのか。ヒビの割れ目にもし手を入れたら手首まですっぽりと入ってしまいそうなほど深く激しい亀裂で、そのような亀裂にびっしりと覆われている。

 それ以外ではコブシ、ニレ、コナラなど、樹肌の違いを見、うえを見上げて、葉の形や群生の間隔、枝の出方などを見る。

 初夏のようで、日差しも強く、Tシャツで過ごす。