久々に、水泳。19:05開始。いつものとおり、25分から30分継続、すなわち19:35前後までの予定で泳ぎ始める。たぶん1分もたたないうちに、深い疲労が全身をつつむ。ああー今日は、ほんとうに、くたびれたなあ、、とでも表現するほかないような、どろりとした、水分と脂質を含んだ、思い疲労感である。ほんとうに、まだ2分か3分しか、経ってないのに、これである。運動は時間を早く進ませる。おそらく運動とは、それが高速に近づけば近づくほど、その系における時間の流れが遅くなる。だからたった3分の運動で、これほど深くだるい疲労におそわれるのだ。そんなことを考えているうちに、水泳はずんずん続きます。5分経つと、もう何往復したのか、わからなくなっている。かぞえてないから、当たり前だ。昔はかぞえていたのだが、最近はもうやめた。かぞえている方が、疲れるような気がする。かぞえると、いままでどのくらいとか、あとどのくらいとか、いまここの事ではない、過去や未来の、余計なことばかり考えがちになるから、疲れやすいのだと思う。べつに何重往復してようが、あんまり関係ないので、もうかぞえてない。でもとにかく、20分なら20分。30分なら30分。びしっと泳ぐことなのだ。体中が酸欠になって、乳酸が出まくっていて、筋肉の内側が空気で膨らんでからっぽになって、人の身体のいちばん張り詰めた状態を思い起こさせる感じを感じるために、そうやって時計をみながら、ひたすら泳ぐのだ。時計が、10分とか15分とか経って、疲労がゆらゆらと身体の中で揺らめいていて、この苦しみをどうして僕はさきほどからずっと体内に貯えてずっとここに保ちながら、いったいここで何をしているのか的な、根本的な日常的ないちばん手っ取り早い不条理を弄びながら、そうやって泳ぎ続けながらある時ふと、時計が止まっていることに気付くのだ。さっき見た、時計の長い針の位置が、一往復してもう一度見ても、変わってないことがある。深く絶望して、我慢してもう一往復して、さらに確認しても、長い針は、やはり動いていない。ずっと、さっきと同じ時間しか経ってない。おそらく運動とは、それが高速に近づけば近づくほど、その系における時間の流れが遅くなる。だからいま、おそらく僕は光速に近いとしか思えない。そのくらい、時間が進んでいないのだ。そして、そこにあるのは深い絶望だ。もう耐えられないと思う。今からこのまま延々、運動継続続行は無理だと思う。むしろ、ここからが本番だと思う。交渉の準備。異議申し立てを準備を整えつつある。何が何でも言いたいことを言ってやろうと思っている。この苦しみを耐えるためにも、やれることはすべてやらなければならぬ。時計の針を見る。もっさりと、面倒くさそうに、どうやらふたたび、また動き始めたようだ。そうかと思ったら、いきなりもう、5分以上進んだ。いったいどうなっているのか。こんなまちまちな時間の進みかたでいいのか?まあ僕には関係のない事だが。いくらなんでもわけのわからないタイムキープだ。結局、時間に対する所見としては最初に予想したとおりだ。30分といったら、まあだいたいこんな程度の時間でしょう。ですね。だいたいそんな感じだと思います。そのひとかたまりにおいて、水泳した。今日はじつによくがんばった。でも以前はこのくらいの気合で、週に2回や3回、多いともっと、来ていたのだから恐い。まったく金と時間は天下の回りモノである。