水泳に行ったら、運の悪いことに、プールのほとんどが子供スクールみたいになっていて、プール全体、小さいのがバシャバシャと水飛沫をあげていて、その片隅の、ほんの1コースだけが、一般人向けのフリーコースという状態。この時点で、場合によってはすぐ帰るという選択肢もあるのだが、今日はその1コースに先客が1人だけという情況だったので、わりと気がねなく泳ぐことができたので、まあ良かった。


水の中で、ブルーに染まった水中を見る。プールの底は青い。泳いでいるときは、息継ぎのたびに横を見る。設置されている時計を見る。視線が水中に戻ると、脇のコースロープの向こうを見る。隣のコースには、子供達が、並んで泳いでいる。背泳ぎで、なかなか上手に泳いでいる。水着につつまれた小さな身体。仰向けになって、首から下から足の先まで、足の方が少し沈んだ状態で、少し斜めになって浮かんだまま、両足を交互に動かして、ゆっくりと進んでいく。水の中の静かなくっきりとした視界。泳いでいる人間の動き。自分と同じ人間とは思えない。子供の身体の小ささ。まだ、プールの底に足が付かないのだ。まるでおでんの具みたいだ。それでも模型の船のように、すいすいと前進する。水中で見ていると面白い。


泳ぎ始めて5分もすると、深く疲れ始める。10分経つと、疲労の苦痛がまずひとつのピークに達する。それは、あまりにも苦しくて辛い。辛さが、10分という時間と結びついて、未来への絶望感として覆いかぶさってくる。いまの時点の辛さと、これからの時間の辛さの想像がセットになるから、余計につらい。いったいなぜ、これをやっているのかと、つくづく思う。それははっきりしているのだ。生活のために仕事をするように、健康のために泳ぐのだ。だからこれは、仕方が無いことなのだ。そう自分に言い聞かせる。そして、とりあえずもう始めたら途中でやめるわけにはいかないという事前のプログラムに従うだけだ。なぜ、こんな苦しい思いをするのかという、根本的な疑問に苛まれながら、それでもやるのだ。そのようなパターンだと、なぜそのような思考形式を採用しているのか、という点には届かないので、結果的に継続性があるのだ。


その後、さらに5分経ち、もう5分経つ。今週は木曜から三日連続水泳していて、このくらい泳いでいるのは数ヶ月ぶりだ。前は、フォームをどう改良したら良いのか、どうしたらもっと早く泳げるか?とうことにとり付かれていて、疲労に対しても前向きに受け入れていたが、ここ数日はそれまでとは違う。疲労感がもろに苦痛に感じる。前より、楽しいと思ってない。30分という事前に自分に課した時間の縛りに頼っている部分が大きい。泳ぎ始めて15分か20分経つと、疲労のなかで、ぼんやりと考え事をしていたりする。こういうことは、それまではなかった。考え事のようなことが、それまではできなくて、泳ぐときは泳ぐことしか考えられないというか、何も考えて無い状態が続く感じだったので、それがそれで良かったとも思っていたが、今日などはぼんやりと、別のことを考えていた。身体的には疲労と苦痛のままだ。


『・・・私の辿りつく点というのはこうです。--芸術という価値は(この言葉を使うのは、結局のところ私たちが価値の問題を研究しつつあるからなのですが)この価値は本質的に、いま申したふたつの領域[作者と作品、作品と観察者]の同一視不能、生産者と消費者のあいだに介在項を置かねばならぬというあの必然性に従属しているということです。重要なのは、生産者と消費者とのあいだに精神に還元できぬなにものかがあって、直接的交渉が存在しないということ、そして、作品というこの介在体は、作者の人柄や思想についてのある概念に還元できるようななにごとも、その作品に感動する人間にもたらさぬということなのです。(中略)

・・・芸術家と他者(読者)このふたりの内部でそれぞれなにが起こったか、それを厳密に比較するための方法など、絶対にいつになっても存在しないでありましょう。そればかりではありません。もし、一方の内部で起こったことが他方に直接的に伝達されるのだとすれば、芸術全体が崩壊することでありましょう。他者の存在に働きかける新しい不浸透性の要素の介在がぜひとも必要なのです・・・(ヴァレリー「芸術についての考察」清水徹訳、「全集」第五巻、筑摩書房)』

柄谷行人トランスクリティーク」357p〜358p


すさまじいほどの、春の陽気だった、今日は。コートを着ていられない。鼻はむず痒い。桜の木に、すでにぽつぽつと芽が吹き出し始めていて、なにやらいやらしい感じの生命力を感じる。


去年は地上波テレビ放映がなかったF1だが、今年はうちの住まいが契約しているチャンネルで見られるみたいなので、今日の開幕予選を見た。毎年、この時期のオーストラリアのサーキットは天気が良いと空も木々も素晴らしくきれいで、それを見るのが楽しみなのに、今日は雨でがっかりした。濡れた路面を後輪をふらふらと揺らしながら無理やり加速していく車たちの挙動。縁石を踏んで加速しようとしてずるーっとリアが流れて氷の上を滑るみたいに為すすべなくウォールにぶつかる。つるつるとした路面を、氷の上をすべるカヌーのようなF1マシンたち。いつ見てもF1は独特に退屈だ。面白くないものだ。アルバートパークサーキットは昔、テレビゲームでさんざん走ったので、コースの形状もおぼえているし、次ブレーキで、3速で抜けたらずーっと全開で行って、最終コーナーは少しずつアクセル開けていって、みたいなのが、テレビで見ているだけでもいまだに想像できてしまう。


しかし、こんなだらだらとして書いても、何が面白いのかね?面白くなくてもいいと思って書いてるからこうなるんだけど。・・・僕はたぶんこれは、過去や未来の、ほとんど他人みたいな自分に向けて書いていて、それを想像する限りにおいて、これを書く、と思ったことを書いている。


読んでいる本は先月からずっと柄谷行人トランスクリティーク」で、たぶん来週中には読み終わりそう。