家を出てすぐの桜が、すでに五部咲きかそれ以上に咲いているのを、しばらく見上げる。おそらく昨日の午後から急に咲き始めていまの時点でこれだから、ここまで咲いていることがあまり知れ渡ってないと思われ、まだ宴会客は皆無。東綾瀬公園内の桜もかなりひらきはじめた。今週末がおそらくピーク。宴会のピークもそのあたりか。風や雨次第ではピークを迎えずにおわってしまうかもしれない。だとすれば今日も見頃の日ではあるだろう。


千代田線の湯島駅から、不忍通りを渡って不忍池に沿って歩く。こちらの桜もはじまっており、行き交う人も多い。暖かく気が浮き上がってしまうような陽気。目も鼻も薄っすらと痒い。そして鳥達が、かもめと鳩と雀が、人間をまったくおそれずに飛び回っている。巨大なカモメが、おっとりとした顔で、手摺りのすぐそばでじっとしている。手を伸ばせば触れるくらいの場所で、思わず、猫を思い起こさせた。こういう人間との距離の近さは、動物の中でも、犬や猫などにしかありえなかったはずのものだと思うが、いったいどうしたことか。雀という鳥はもともと、あれほど人間に近いところを、うろちょろするような鳥だっただろうか?誰かの手のひらに乗せた餌を、何十羽もの雀が、まるで小さめの鳩のように、羽を忙しなく動かしながら我先にの勢いで啄ばんでいて、周囲一帯、雀だらけになっているのだ。通りがかる人が皆、それを見て一々驚く。あら、雀だよ、ねえ。あんなにたくさん。こんなの、めずらしいんじゃない?


VOCA展をやっている上野の森美術館の、併設された展示会場に小林正人「絵画の子」が展示されていた。94年にVOCA奨励賞をとった作品。実物をはじめてみた。正直、ほんとうに久しぶりに、いったいいつ以来のことかと思うくらい久しぶりに、絵をみたという感じ。絵が立ち上がっていく感じをみたというのか、絵が成り立とうとするそのまさに瞬間をみたというのか、みてもみても、ずっとそれは、そうあろうとし続ける刹那、その一瞬のままだ。その一瞬のままが、そのまま物質として目の前に固着している。それを、触れようと思えば触れることさえできる、モノとしてここにある。このおそろしいほどの矛盾。このどうしようもない説明のつかなさ。これこそが、絵画という存在の、根本的な不可解さ、不思議さなのだと思う。


それにしても、上野公園も駅周辺も、今日は人が凄かった。昼過ぎになって、まだ何も食べてないし、蕎麦や行こうかといって、そしたら昼から酒になるけど、今日はまあ桜の日だからそれでもいいでしょう、でもこんな日では店も絶対混んでるに決まってるだろうけど、とにかく行くだけは行こうと言って、仲御徒町まで歩いて、店の入口をのぞいたら案の定、満席で人が何組も待っている状態で、そのままさーっと日比谷線で帰って、家でごはんにした。