そのことを言えばいいと思ったのだが、いつもそうだが、そう思ったことだけはおぼえていて、しかし結局何を言ったらいいのかはわからない。大体いつもそんな話になるので、ある意味とてもむなしい。


その日のはじめからおわりまでを、一から順に思い出しながら、ずっと説明するのは、面倒くさいし、まるでべたっとした一様な絵を描いてるような想像が出てきて、それがいやなのだ。でもこれまでも、そういう話し方も何度となくしていて、それはそれで意外と面白いこともある。でもたぶん、大体の私の気分として、そういうその日一日を振り返るような説明のしかたに対して、なんとなくいやなのだ。そう言いながらこうして話を続けていること自体が、ばかばかしいと思うけど、それはそれで、別にいいのだ。そのへんは微妙な気分の問題なのだ。


だから、言うなら何か、すごく急な、唐突なことを言いたい。そのことを言えばいいと思ったのも、内容ではなくその、急にぶわっと出てくるその感じのことだ。


それを言いたいのだ。ところで、明日は凄く退屈だと思われる会食に参加しなければいけない。


私達と友達の夫婦の四人で、私はその友達の奥さんとは初対面だ。女同士の初対面は面倒くさい。男同士の初対面も面倒くさいのかもしれないけど、私は女だからわからない。とにかく四人で向かい合って、なんだか知らないけど、意味なくでかい皿に小さく盛られたのがいくつも出てきて、それが一皿何千円もして、しかも全部終わるのに二時間もかかると思うだけで、ほんとうにうんざりする。そういうのが、ほんとうに面倒くさいのだ。そういうのが、座って料理が次々と出てくるのを食ってうまいとかまずいとか言って、それで時間をつぶすのが、何の意味があるのかさっぱりわからない。見た目がきれいとか、まじでどうでもいい。それより、今とりあえず、ものすごくよく飛ぶフリスビーがやりたい。すごい良く飛ぶフリスビー知ってる?前も話したと思うけど、投げると二百メートルくらいずーっと飛ぶフリスビーがあるのよ。一回投げると、空中を、すーっと、くるくるしながら、上がったり下がったりしながら、えんえん、ずーっと飛びつつけて、本当に二百メートルとかそのくらい飛ぶ。だから二人で、そのフリスビーを、二百メートルとか、そのくらい離れた距離はなれて、川の河川敷とか、でかい公園に行って、お互いに二百メートルくらい離れて、フリスビーを投げ合うのを、いま超やりたい。でも、うちの旦那はふだん出張で家にいないから、だからその奥さんとフリスビーしたい。あーとにかくそのフリスビーがやりたい。


人の着ている服の、いつも横腹のあたりが、何となく頼りないものに思ったりない?


洋服って、人間の歴史の最も最初の時代から、まず肩に引っ掛かって、そのあと両腕に袖を通して、身体全体に布がすっぽりとかぶさるような構造で、それは大体どの国のどの文化でも、そういうものだったと思うけど、そうなると衣服が身体にぴったりと着いているのは、肩の部分がまず最初にあるでしょ。


肩がまず最初に目が行くってことか。肩フェチなの?


いや、違う。服って必ず、着たら肩から吊り下げられるでしょ。それで、腰や正面の胸から腹にかけてや、背中や、胸や尻や、足とか、それぞれの場所の応じて、衣服のそれぞれの意匠の発展があるでしょ。部位に対して、独自な固められかたがあるというか、切れ目を入れる箇所や、留める箇所や、重力に任せて流す箇所や、そういうのの中で、横腹の部分だけは、なんとなくまだ少しだけ意味が少ないというか。だから、そこだけが少しだけ、単なる衣服というか、単なる布に見えてしまって、そこにまだ、人間の解明されていない部分があるという、そんな気がする。たとえば上着だと、ポケットが着いているあたりの箇所で、それだともう衣服ではなく単なるポケットだし、そうじゃない場合はただの無防備な箇所だけど。


うわ、何言ってるかさっぱりわからない。


ところで、アウトドアグッズ売り場の色々なものを見ていると、自然の中で如何に快適に過ごすかということの工夫がたくさんあって、見ているだけでも面白いけど、でも結果的には派手な色の合成繊維や化学樹脂の品物ばかりになって、あの色と質感はなんとも嫌な感じだね。


やっぱりこういう格好をしないと山に登れないのかと思うと結構萎えるものはあるね。


でも私はアウトドア系のものを見てるだけですごい胸がわくわくするけど。


でも何となく、欺瞞ぽくない?最初から高性能なのに、如何にもシンプルっぽい感じの演技して、たかだか一杯のコーヒーをせこく沸かすだの、変な煮込み料理一皿作るだので、そういうのを大自然の中でありがたがって、ああおいしい、生き返る、みたいな。


その言い方は相当性格が悪いでしょ。


あれならむしろ、昔の金持ちの貴族みたいに、ちゃんとカネを払って、お付の者を従えていつもと変わらない普段着で、いつもの暮らしの延長を山の上でも続けるのが前提で行って、宿泊場所は召使によって仮設のテントがすぐ設営されて、その下で普通の椅子とテーブルが設置されて、酒が出て、運ばれてくる料理をいただくみたいな方が、今の僕たちの生活感覚から山に行って食事することの一貫性があるような気がする。


それはどういう生活の人を想定しているのか?僕は毎日コンビニとかが主食なので、全然意味がわからないけど。


毎日コンビニとか惣菜が主食の人こそが、昔の金持ちの貴族なんだよ。


ばかだな。昔の金持ちの貴族なんか、今はもういねーよ。


あたえられた条件下で最善を尽くすだけですから。


僕がここにいて、斜め向かいにもう一人いる。それを説明している位置を、僕ともう一人の間に置く。その位置から見ると、僕にもたしかに無防備なところはあった。いやむしろ無防備そのものだ。というよりも、その無防備さから、ようやく話が始まったのだ。この僕のいるここから、言うことは何もなかった。それは、僕が中学一年の頃から無かった。というか、僕ともう一人の間に、説明の位置というものを置いたことで、ようやく僕の中学一年が始まり、僕の中学二年は、しかし思い通りにはいかないことばかりだった。そのような体勢をつくって以後に、自分がアンコントローラブルであることの苦しみというのは言葉にしがたいものがある。


言葉にしがたいものを言葉にするための、痩せた土に作物を実らせるための、地道な実験であった。