眠って、起きた。土曜日。七時半で、もっと寝てもかまわないのに、もう眠れない。あえて、鳴いてみる。死ぬ直前の小動物が最後に鳴くような声を出してみた。そして、起き上がった。寒い朝だ。


図書館まで歩く。小川の水面にところどころ、氷が張っている。鯉は見当たらず、鴨はいる。たいへん寒い日だけど、風は無く、晴天で日当たりが良いので、全身が寒さに緊張しながら、太陽のあたる体の表面のみだらしなくリラックスしている。空の青さが、あまりにもな広がりで、あらゆる人に無言を強いるような青さだ。


図書館や、土日家にいるときは、通勤時に読む本とはまるで別のものを読んでいるのが楽しい。そのとき読んでそのまま忘れてしまうものが殆どかもしれないが、はじめからタイトルも作者もろくに確認せず、とにかくその場で読み始めてしまうのが楽しい。最近はどうにもなぜか昔のフランス料理の本と、ヒトラーの話ばかりに興味があり、フランス料理であればまだ粗野な調理方法だった時代や当時の作法や調理法について、ヒトラーであれば末期の何もかもが上手く行かず万事休すな情況についてを、そういう本がないか、ひたすら検索しては、その棚に行って読み、また探しては読む。


僕を含めたNNBの連中は、常に仲間内で連絡を取り合って、上手くやろうとしていた。表面的には上品に、社交的で、洗練された物腰を崩さなかったはずだが、前提として、この世界は情報戦で、通俗的な意味での文字通りのコミュニケーションが生きるすべと認知しており、その法則にしたがって行動したし、それを理解しない者は排除した。この、排除という行為は、近年僕がはじめて関わったあたらしい仕事の一つだった。僕らはその取り組みを仲間内でWipeOutと呼んだ。Wipeプロセスを経てOutに至るまでのステータス管理と実践である。かつ、僕らはよく盛り場で「WipeOut!」と叫んだ。排除せよ、あいつを摘み出せ!と。これを叫ぶと、気持ちが鼓舞され、いま自分がなそうとしている仕事の意義と目的をはっきりと感じられるように思えた。実のところ感じていたのはおそらく、意義と目的ではなくて成し遂げる瞬間の怒涛のようなスピードに伴う高揚感、その速度的快感をイメージして、それに酔っていたのだと思うが。


料理の写真というのはとくにやや古い写真になると、大抵はまるで泥のような、炭のような、ある種の濁った黒さが図版内にあらわれていて、これがその物質の見えざる姿を垣間見せているような感じに思えて面白い。料理の盛り付けというのはだからむしろ古臭い素朴な感じの方がよくて、雑誌に載ってるような現代的なのはよほどでもなければごまかしでしかなく、写真ならもっと興ざめでなければいけないはずだ。料理の写真というのもまさに下手な写真のほうが生々しさはあると云える。おせじにも美味しそうには見えず、食べることの虚しさが沸き起こるようないいかげんな写真。