恵比寿の東京都写真美術館で高谷史郎「明るい部屋」を観る。小規模な展示だが、どれだけ長時間居ても居過ぎたと感じることはないような、ほとんど自分を放棄させられて、目の前の作品に乗っ取られてしまったかのような状態にさせられる。それが自分だけでなく、会場にいる人々のほとんどが、そんな状態になっているのではないかと思うくらい、皆がその場で死んだように、作品の前に呆然としていて、作品の前を人がまばらになることはほとんど無い。驚きの最たるものはやはりToposcanと題された作品である。風景のデジタル動画映像の横1ピクセル分と縦の画面高さ分だけを横に大きく引き伸ばしたような感じで細かい横ストライプを生じさせ、景色とストライプとの境界が少しずつ移動していき、横に八つ並べられたモニターに映されている風景とストライプとの割合が少しずつ変化していき、さらに動画と静止画の境界線も移動していき、ストライプ、動画、静止画と右から左へ、あるいは左から右へと、イメージに変化があたえられていくのを見ているだけのことで、じつに何てことのない単純な手法のはずなのに、見始めたらもう簡単にはその場を立ち去れない。色が美しいとか、上下の動きが楽しいとか思っているのは最初のうちだけで、その過程を見続けていると、いったいどちらがどちらへ向かって変化していってるのかわからなくなってくる。つまり何かを何かに変容させているその流れを見ているのではなく、風景でもなくストライプでもない、何とも説明できない、ただし最初から実際にあったものを、今、具体的に見ているとしか思えなくて、何か根本的な不安に近いような思いをかかえてその場にいるしかない。そしてその時間の流れ方。作品の前から立ち去るためには、かなりはっきりとした気持ちで一回切断しないといけないくらい、没入状態となる。こういった、無条件に受け入れるしかすべがないようなものを観たのはかなり久しぶり。