おそらく、三ヶ月に一度くらいの頻度で、悪夢を見るが、夢の内容がいつも、死ぬか、幽霊を見るかのどちらかである。どちらにせよ、死ぬ直前または見る直前で悲鳴を上げて、その瞬間に目覚める。


この話を人に話したら爆笑されてしまった。死ぬのが怖いのはまだわかるけど、幽霊が怖いって…。そもそも幽霊なんて信じられます?幽霊って、ぜんぜん信じてないわ。どうすれば幽霊を怖がれるのか、そっちを知りたいくらいです、と。


それを聞いて思ったのは、ははあ、なるほど、君は幽霊を、おそらくテレビや本に出てくるような、あの白い着物を着た女みたいなものだと思ってるらしい、そしてそんな風に幽霊のことを考えているのが、どうやら君だけでなくて、僕の想像以上に、かなり多くの人々が、きっとそうなのだろうな、ということであった。


でも違う、幽霊がいるかいないかだなんて、そんなのはどうでもいい。そうではないのだ。幽霊なんて、見たことないのだ。誰も知らないのだ。だから怖いんじゃないか。幽霊を見るというのは、僕の中では、誰も知らなかったこと、知りえなかったことを、ついに知ってしまうその瞬間のことなのだ。だから、幽霊を見るとは、僕にとってほぼ、死ぬということと同じ意味だ。死ぬのが怖いのだって、今まで誰も死んだことがないからだ。いや、死んだ人はたくさんいるけど、僕たちが、ここにこうしている以上、死んだ人と我々の間にはどうしたって越えられない壁があるじゃないか。怖いのはそれだよ。なるほど確かに、死に至るほどの肉体的苦痛を経験したことのある人はいるだろうし、死と背中合わせの凄まじい恐怖体験から生還してきた人もいるだろう。しかし、それでもやはり、まだ壁を越えたことにはならないのだ。その壁は、あとほんの一息、あともう数センチというところで、ほとんどあと一歩の、もはや向こう側がかすかに見えるくらいの距離において、そのあと一息だけで途方もなく遠くて、そこから先が、どうあがいても越えられないのだ。それにも関わらず、人間として生まれてきたら、いつかは必ず、それを越えるのだ。それが確実に規定付けられていて、だから怖いのだ。だから僕が怖いのは、死ぬことでも幽霊を見ることでもなくて、その壁を越えてしまう瞬間なのだ。


でも、怖いと言っても…。そんな怖さは大したものではないのだ。僕はもう何度も、怖い夢を見てきたのだ。何度も死ぬ手前まできた。何度も幽霊の姿を、この目におさめたのだ。あの恐怖に苛まれると、悲鳴を上げずにはいられない。しかし、最近は、もう一人の僕が冷静にこう言うのだ。ワンパターンだな。自分で、何度も悲鳴を上げる自分に飽きてきた。恐怖心というのは、ぜんぜん単調で、深みもないし旨味もない。味わうべき何もない。神経の反応というのは、とても単調で退屈なものだ。苦痛とか快感も、きっと本来は取るに足らないものだ。結局、過去の記憶と結びつかない直接的な反応なんて、何度味わっても無意味だ。むしろ慣れてしまうだけのことだ。


そんなことを考えながら、今も夢を見ている。夢を見ながら、それが夢だと気づくことは珍しくないが、ことに悪夢の場合、僕はほぼ毎回、そのことに最初から気づいている。つまり、今見ている夢の状況として、悪夢にうなされている訳ではないが、これから天候が変わるみたいに、今見ているものが悪夢に変貌していくだろうと予知している。今回もそうだと知ったうえで、僕は今こうして、この場所にいる。すなわち今日は、これから、幽霊を見るということを僕は知っている。