麻雀放浪記(一)青春編」を読んでいて、昔、自分がギャンブルをやってたときのことを思い出して、やっぱり自分に一番欠けていたのは、何が何でも勝つという気持ち、石に噛り付いてでも勝つという覚悟。というやつだなあー。。などと思う。負けて、絶望して、目の前が真っ暗、というのはあっても、所詮はそういレベルでしかないし。


絶対に負けられないと、はじめて、そこに無根拠でも迷信でもなんでもいいから、何がしかの法則を読み取ろうとする。その読んだ何かを信じられるか。それに自分の生を乗せる、自分の生そのものを表象させることができるか、という挑戦となる。賭場において、自分の生を、限られた時間の中に他人事のように再生させて、その死の瞬間までを呆然と見るような行為になってくる。この境地は、たぶん普通は無理。「だが、ひまつぶしなら、もう少しほかに、することがあらァ。お前もそんな阿呆に、ならねえようにしな」


やっぱり、ひ弱な人間ほど「勝った自分」と「負けた自分」をどちらも想像してしまうのだ。そしてまったく当然の如く、その中間を生きようとするのだ。それが当然と思っているのだ。本当は、どちらかにしか生きられていないなんて、露ほども思わないのだ。これは、情況がどれほど切羽詰っても、哀しいまでに、最期までそうなのだ。「勝ち」しかありえない。そうでなければ、すなわち自分はもう消えた、、というのは、口で云うのは容易いが、本気でそれをイメージするのは、あまりにも困難だ。というか、想像したつもりにはなれても、その時点でおそらく実際には、想像もできないようなことなのだ。ほんとうは。というか、逆に想像できてしまうのも、それはそれで、困ったことだ。そういう人を凄いというようなのは、もう無い。


それこそ、若いうちから寺山修司なんかを読むと、かえって悪いのかもしれない。