友達たちと午後から会って、美術同好会をやって、日が暮れてから晩餐会をする。解散して、家でもまだだらだらと飲んでいて、こうしてうっとりとした時間の浪費を、いつまでも続けていて、何かおもしろかった本を思い出して読み直したり、昔の笑い話を思い出したりして声を出して笑う。部屋のなかをうろうろとほっつき歩く。昔からその癖があって、高校生のとき母親から犬みたいに何うろうろしてんのよと言われたことがある。画面全体が青一色の絵とかって、何がいいんですか、という問いに対して、通り一遍ではない何か、納得できるような言い方で答えられないものかと思って色々と考える。上手い言い方、自分の腑に落ちる言い方、ではなくて、何かもっと、対象に対して一緒になれるような、その必要性をまず感じてくれるような言い方は、ないものか。ある内容の説明のために言葉を投下するのではなく、言葉そのものからWe Belong Togetherな属性に置き換えることができないのか。そういうとき、世界には色々あって、その中の一つとして、そういうのもあるよね、という客観中立的な言い方が必ずしも正しいわけではなくて、自分の本気の信仰を話さなければいけないのだ。それはもう、これしかないんだから、という、そういう僕に聴くなら、それはそうだよと。でもそういう僕、と言ってる時点で、もはや世界には色々、の部分が含まれている。だからもっと、僕たちはもっと、一緒に、つまりWe Belong Togetherとして、言葉の属性に加えられないか。宇宙人からみたら、地球にはシステムがいくつかあって、その末端に無数の有機体が貼りついているように見えたとしても、その有機体の連携、結晶として芸術があるのかもしれないけど、それはさすがに今、炒め物のハーブの香りを楽しんでいる我々にとって、宇宙人並みに想像の外側だ。今日は春だと思いこんで薄着で外出したのだけれど大変寒くて、でも何とかなったのは結果的には寒さも柔らぎはじめているということか。しばらくしたらまた会って遊ぶし、しばらくすると半年でも一年でも疎遠になってしまう。