ええと…昨日は、去年同様

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1.  8:30 西新橋      健康診断
2. 11:30 虎ノ門      昼食
3. 13:30 浜離宮恩賜庭園  蛇を探す(いなかった)
4. 15:30 上野       バルテュス
5. 17:00 湯島       夕食
6. 19:00 池袋       池袋のジュンク堂『魂のレイヤー』刊行記念トークイベント

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6が物凄かった。呆然として、「すげー…」と口を空けて聞いてるだけという感じ。
今までの何十年かの人生を生きてきて、「アレを、わかりたい」と思ったことって、一度でもあるだろうか?という根本的な疑問を自分に対しておぼえた。頭がいいとか悪いとか、そういう差は歴然としてあるのだと思うけど、まず何よりも先に「わかりたい」という欲望。それに抗えないような。。そんなことを今まで、考えたこともないかもしれない。


「この会場に集まっている中で、いったいどのくらいの人数の人が、こういう問題に対して興味があるんですか?」という言葉もあったかと思うが、自分なんかは、その話に驚くことは驚くけど、とても興味があるとは言えないように思う。しかし、この呆然とさせられる感じがいったい何か?というのは、かなり確かにある。


わかる、というのは、使える、ということである。他人事として知っても、知っただけだ。使えなければ、わかったことにはならない。使えるくらいわかるためには、反復練習が必要である。みたいな話もあって、こういう論法自体は仕事などのシーンでも頻繁に出てくるが、しかしそこまでして「わかりたい」のかどうか、使えるとはつまり、それを自分に則させて、自分の側に配備した状態で、あらためて将棋の持ち駒みたいに働かせて…というレベルで、あらゆることの連携をそのままローカルに宿しているような状態で、でも外部参照とかライブラリの利用とかも最初の一度だけ基本の仕組みはそのようにローカルに蓄えなければ、では今回は利用しようかという発想にもなれないので、そこまでしたいかと問い詰められると、なんとも答えようがなく、どうなんですかねー…という気持ちになる。それを私は取り込めるはずだという予測。それでパワーアップできるという予感。その高揚とは何なのか。逆に言えば、その予感だけですでにわかりかけたという段階とも言えるか。


Aについて説明できても、Aについてわかっている証拠にはならない。Aについてわかるとは、ほとんどBを予知する力を得たということであり、Aについてわかるとは、つまりBを茫洋とイメージできることと同義であったりもするのか。パズルのピース一個を理解することはできず、パズルのピース一個は大体このあたりに位置するはずだというパズル全体のイメージを作り出すための部品で、そのように作用させるまでの頭の鍛錬で、そのうえで、ある些細な模様の違いなどにさらなる推理の根拠を見出していけるかどうかだ。


そして僕は、ほとんど入社したばかりの新人の「何がわかってないのかもわからないし、質問でもできないし、ほぼフリーズ状態です。」みたいなモードになるが、しかし「呆然とさせられる感じ」だけはある、というのが面白い。


どうでもいいけど、自分もこうして毎日どうでもいいことを書いていて、ある程度パターンの組み合わせで行けるだろうなと思うところはある。僕程度の文章だと、ほぼ形式化可能ではないかと思われる。というか、このブログをはじめてほんの最初の時期で「これはこのあと何年でも続けられるだろうな」と思ったフシもあるくらいだ。


今日ようやく「魂のレイヤー」吉本論を読み終わったが、とりあえずこの「呆然とさせられる感じ」の余韻に寄りかかるようにして続きを読み、それをする根拠自体は曖昧ながら反復練習の日々のちょっとした感触の違いみたいなものを気にしながらこれからも色々と本を読む。それは一行や1センテンスを受容するときの、自分の挙動が僅かに変わったのでは?と錯覚に近いくらいの感覚で感じられるような変化であるが、ひとまずそういうレベルでひきつづき通勤経路を往復する。あとは、何かするならとりあえず、今は何も考えずに、何もわからないフリをしながらやるしかない、みたいな事を、思ったりもする。