新聞連載してる漱石の「こころ」を律儀にも妻が毎日切り抜いていて、でも切り抜いてるだけで最近全然読んでなかったのをまとめて読んだ。それで、読み出すとやっぱりじつに面白い、というか、漱石の文章というのは、読んでいるとなぜか、ああ、よくわからないけど自分もなんかこういう感じの、何か書きたいというか、何かできるんじゃないだろうか的な気持ちが、むくむくとわいて来るようで、なんかこう、読んでいて、そういうなんとも知れぬ心地の良さというか、今読んでいるこれで、ここに存在している世界をはっきりと好きになってしまっている。そう思えたら小説を読む時間は大変気持ちの良いものになってひたすら幸せで、かつ自分でもやりたいと思ってしまうならじつに結構ではないか。「こころ」を読んでると、ぜんぜん昔の話という感じがしない。普通に自分が学生だった頃の話のように読んでしまっている。ばかな話だが、読んでいて、なぜかふと、自分の大学生時代のことを思い出して、そしたら、そのとき作っていた卒業制作の作品のことがやけに鮮明に思い浮かんできて、それがなんだか、自作のいろんな箇所が、ものすごく心残りで、一々後悔の気持ちというか、忸怩たる思いが湧き上がってきて、ああ、もしかしたら自分は本来、今からでもいいから、ひたすら来た道を逆行して、あの場所からやり直さなければいけないのかしら?的な、もう今更、そんなこと言ってもどうしようもないでしょ?的な、ほとんど夢を見ているのに近いような妄想に取り付かれて、一瞬ふわっと過去に戻りかけて、そのあとしばらくして、ばたっと倒れてそのまま二時間半くらい眠ったらしい。日中の時間に、これだけ眠ったのはじつに久々だ。そして目が覚めてから「こころ」の続きを読んで昨日掲載分のところまで読み終わる。そのあと夕食の時間を過ごしながら、今日このあとここに書くことを三つばかり記憶に留めておいたのだが、それは、漱石のこととか、少なくとも前述したようなこととはまったく無関係なことだったはずで、正直、今ここにそれをもし書けていたとしたら、いま実際ここに書いている、この内容よりも、かなり面白い話だったはずだが、結局しばらくしたら、いつものとおりそんなことはすっかり忘れてしまったので、それでとりあえず、結局忘れてしまった、という書き出しで書き始めたのだが、しょうもないなあ、つまらないなあ、という気分になって、少しだらだらして、日中寝てたから余計に今、こうして夜更かし状態になってしまっているわけだ。…それで、妻が起きて来て「まだ起きてるの?」と言うので「いや、もう寝る。すごい時間の無駄だわ。」とか言って、それでもなぜか、そのままずるずると起きていて、さっきまで「尿毒症」について調べてたりしていて、ひたすらぐずぐずしている。こういうとき、いまだに高校のときの期末試験の前夜の、まったく無意味にグダグダ雑誌とか本を読んで徹夜して朝になってしまうときをリアルに思い出す。いや、当時のその日と今が同じ夜だ。明日が試験で、もう夜中の三時か四時で、まだまったく勉強してない情況で、それでも自分はこのあと、もしかしたら五時くらいから少しでも勉強するのかもしれないな?という淡い期待、というか疑いを捨ててないけど、でも結局このまままったく何もしないまま学校に行くのかな?という絶望的な運命の予感もはっきりと感じていて、こういうのが処刑前夜の気持ちに近いのかもしれないとか、そういう気分の高校時代のよくある一夜を過ごしたりもしたが、でも、よくよく考えると、大人になるとなかなか、こういうことはしなくなるもので、今なら事前準備しないとか、本当にそういう要素が、気付けば自分の中にまったく無くなってしまった。だからもう、処刑前夜の気持ちとか、過去の思い出でしかない。人との約束を破ったり、自分の感情を優先させたりするような、正直、今更もはや、あの場所には戻りたくない、若い頃に戻りたいという言葉はたくさん聞くが、僕はそういうことは思わない。昔の自分より今の自分の方が、要領が良くて乗っていて快適で余計な気遣いなしで行ける。今の何の特徴もなく普通に走る乗用車みたいなものだ。世間一般基準でどう考えても今の方がすぐれている。自分の快適さだけ考えれば、そのまま乗り続けたほうがいい。そうやって、今も昔もひたすら枠の内側をひたすら手で触って検証し続けているようなものか。