「ボンド通りのダロウェイ夫人」を読んだ。「ダロウェイ夫人」に先行して1923年に発表された短編とのこと。


書き出しは「ダロウェイ夫人」に似ている、けど違う。この違いは翻訳の違いなのか原文でも違うのかはよくわからないが、たぶん「ボンド通りのダロウェイ夫人」のときは、それ以後とは違う言い方になっていたのだろう。「まだ人の手が触れていない時間」というところがすごくいい。

手袋を買いに行ってくるわ、とダロウェイ夫人は言った。
通りに出ると、時を打つビッグ・ベンの鐘の音が聞こえた。十一時。まだ人の手が触れていない時間は新鮮で、まるで浜辺の子供たちにあてがわれたそれのようだった。
(ちくま文庫 ボンド通りのダロウェイ夫人 西崎憲 訳)

ダロウェイ夫人は、お花は自分で買いに行こう、と言った。
なにしろ、ルーシーは、あれもこれも手いっぱいなんだから。戸は蝶番からはずされるんだろう。ランペルメイアーの職人衆がなおしにやってくるから。それにしても、とクラリッサ・ダロウェイは思った。なんてすてきな朝だろう------まるで浜辺にいる子供らにどっと押し寄せる朝とでも言いたいほど新鮮だわ。
(角川文庫 ダロウェイ夫人・富田彬 訳)

お花はわたしが買ってきましょうね、とクラリッサは言った。
だって、ルーシーは手一杯だもの。ドアを蝶番から外すことになるし、仕出し屋のランペルマイヤーから人が来る。それに、この朝!すがすがしくて、まるで浜辺で子供たちを待ち受けている朝みたい。
(光文社[古典新訳]文庫 ダロウェイ夫人・土屋政雄 訳)


「ダロウェイ夫人」はその日の夜にパーティーを開催する予定だが、「ボンド通りのダロウェイ夫人」では、単に手袋を買いに出かけるだけである。長編になって縦横無尽に展開される「あの形式」も本短編ではまだ控え目にしか現れてこない。しかし短いがゆえに濃縮度が高いというか、クラリッサ自身にきわめて特徴的な、ものを思うときのおそろしいほどの集中度の低さというか、散漫さというか、一つの考えがおわりまで継続せずに物切れの尻切れトンボになって拡散してしまう感じが、よりわかりやすくあらわれていると思う。というか、普通の人間なら大抵はこのくらいの散漫さでモノを考えているに違いなく、その意味でクラリッサという登場人物はそれだけで迫真的な登場人物なのだ。


しかし「ボンド通りのダロウェイ夫人」は本当にすばらしい。向かいの客の手袋が腕に通っていく様子とか、相手の表情とか店内の様子とか、そういうこととまったく無関係なこととか、じつに取りとめのない考えがぼろぼろとあふれては落ちていく。まったくなんでもない誰かが、ふと思って、すぐに消えてしまうような「思い」が泡のように浮かび上がってくる。泡は泡に過ぎないし、「思い」はその人をあらわすものではない。だから「思い」を読んでも、その人をわかることはない。というか、泡は勝手に浮かびあがってしまうように、「思い」も瞬時に人から離れてしまうのがふつうなのだ。だから誰かが思ったこともすぐに剥離して、そこにただようばかりだ。しかしそこになぜか不思議な希望というかよろこびがあるのだ。